早朝。潮風かおる瀬戸内の海沿いを「横付け」と呼ばれるサイドカー付き自転車をこぐ女性たち。
「いただきさん」との名前で親しまれる魚売りの行商人である。しばらくすると、あちらこちらの街角で、横付けを止めた女性たちが新鮮な魚を捌き、常連客たちで賑わう。香川県高松市沿岸部の朝の風物詩。筆者にとっても子ども時代、この風景があまりにも当たり前だった。
大学進学を機に地元を離れて10年ほど。たまに帰省するのだが、そういえば最近いただきさんを見かけないように思う。ふと調べたところ、なんと最後のお一人になってしまっているとのこと。そこで、地元の小学校などでいただきさんの文化やご自身の体験などを語り部として精力的に伝え、様々な取材や研究等にも協力してきたいただきさんの広報窓口的存在である橋本ヒロミさんにまずはお話を伺った。
最盛期は400人近くも。地域に欠かせない存在だった
「もともとは400人近くいただきさんがいて、組合もあったんよ。保健所からフグの捌き方についての研修もあったりね。いただきさんどうしの縄張り争いがあったくらい、たくさんいた時代がありました」

1937年生まれの橋本さん。漁師の夫との結婚を機に、23歳の時にいただきさんとして働きはじめた。朝3時に起きて市場に行き、帰宅は19時頃。夫が取ってきた魚や仕入れた魚を売る生活を53年間続けた。
「いただきさんは、みんな基本的に漁師の奥さんがやっとったんよ。おじいさんの知り合いが田村町の方にいて、そこまで自転車に積んでじゃこを持っていったんが最初やったな。ほんなら、ちょっと何持っとん?って道すがら止められてな。徐々にお客さんが増えていったんや」
田村町は市場から6kmほど。市場周辺や市街地は古参のいただきさんたちの縄張りなので、新規参入者は郊外へ郊外へと進出していった。中には、屋島や成合、鬼無(7〜8kmほどの距離)まで売りに行っていた人もいたという。橋本さんは、最盛期は1日80〜100人くらいに販売。150人ほどの常連客がいたという。
総重量は100kg超え!?過酷さとやりがい溢れる仕事
「足が悪いおばあさんが、いただきさんが家の近くまで来てくれるけん魚が食べられるっていつも喜んでたな。その日の朝に取れたばっかりの魚やけん、新鮮さじゃスーパーには負けんしね。あと、常連さんの顔を思い浮かべながら、あの人はこの魚がほしいやろなって市場で選んで持っていくんよ。小さかった子どもたちも、大きくなってから、おばあちゃんの鮭を食べたけん大きくなれたよ!って言ってもらえて、ほんまに嬉しかったな」
夏場は魚が痛むことを防ぐために、氷をより多く運ぶため、自転車の総重量は100kg以上にまでなるという。橋本さんによると、以前取材に来た若者が試しに乗りたいといって自転車を漕ごうとしたが、うまく進めなかったという。非常に体力のいる仕事である。また、自転車が途中でパンクしてしまったり、魚を捌いている時に自分の指を切ってしまったり、冬にまな板が凍って魚がすべったり、大変なことももちろん少なくなかった。
「子どもなんかに、魚売り臭いあっちいけって言われることもよくあったよ。自転車を蹴られたり、商売道具にいたずらされたりもな。でも、集団でおるときはそんな悪さをしてくる子が、1人のときは坂道を一緒に自転車押してくれたり、拾ってくれたり、人は見かけだけやないなって」
ルーツは400年以上前の南北朝時代へ
市場がある日新地区の日新コミュニティセンターによると、南北朝の動乱に巻き込まれた糸より姫がいただきさんのルーツである。都から流れてきて、地元の漁師と結ばれ7人の子どもを授かった姫は、子どもたちを育てるために、魚の入ったたらいを頭にのせて売り歩いた。人々は、高貴な方から魚をいただく(購入する)ことから、いただきさんと呼ぶようになったという。

「地元の日新小学校(2010年に閉校)では、10年以上自分の人生について、特にいただきさんについて講演しましたね。昔は、運動会で実際の魚を釣ったり、横付けを漕ぐレースをしたり、穴子つかみ競走をしたり地元らしい行事があったんよ。だからこそいただきさんが根付いていたんよ。魚の捌き方も授業で教えたね。でも、魚が好きな子どもが近頃はほとんどいなくなった」
スーパーでの購入が一般化したことなどからいただきさんは減少の一途を辿り、2025年時点で営業している方は最後の1人となってしまった。高松市の保健所も、公衆衛生の観点から仮に新規開業の希望があっても許可はしないとのことで、南北朝時代からおよそ600年続いた文化は風前の灯となっている。なお、自動車などを使って魚を販売する移動販売のような事業者は存在するが、これらはいただきさんとは呼ばない。
「私は誇りを持ってやってきました。文化が無くなってしまうことは本当に悲しい。経験者もほとんどが80代後半。語り継ぐ人もいません。市場経済的にも今の時代にこの商売は厳しいし、大変な仕事やけんやりたい人もおらんと思う。純粋な形でいただきさんを残すことは難しいと思う。でも、資料をまとめて、体験談を記録して、何かの形で残せないかなと思っておるんよ」

現在、いただきさんは最後の1名に
橋本さんに教えていただき、最後の1人となった糸谷利恵さんのもとへ伺った。現在でも、週4日ほど高松市の片原町商店街付近で横付けを止めて夫の静夫さんと共に常連客たちに魚を販売している。
「昔と違ってお客さんも減ったし、独り身の方が多いけん、先細りです。(文化がなくなるのは)残念やけど、暑いししんどい仕事やしね」
教科書に掲載され、時代劇や歴史小説などに描かれるような歴史ではけっしてない。だが、いただきさんは、地域に根差し、人々の生活を支え、当たり前の日常を作ってきた、いわば「小さな歴史」だ。きっと、全国各地に存在するであろうこの小さな歴史にもっと着目し、守っていかなければ、地域のアイデンティティを私たちは失ってしまい、残されるのはなんの趣の無い、変わり映えのない風景になってしまう。いまこそ、小さな歴史にスポットライトを当てたい。そこに、私たちが忘れかけていた大切なものが見つかるはずだ。