19歳の時に首にケガ。 医師「もう二度と歩くことはできません。これからの人生、寝たきりの生活を覚悟してください」その後、努力をし前進し続ける男性。そのわけに迫る

19歳の時に首にケガ。 医師「もう二度と歩くことはできません。これからの人生、寝たきりの生活を覚悟してください」その後、努力をし前進し続ける男性。そのわけに迫る
中村さん(@chin_stagram612さんより提供)

「歩けなくなって17年」と語る中村珍晴さんは、19歳のときにアメリカンフットボールの試合中に首を骨折し、車いす生活となりました。「この体では何もできない…」と落ち込み、つらいこともたくさん経験しました。しかし、もがき苦しみながらも決して諦めませんでした。

車いす生活になっても、できることに挑戦し続け、大学へ復学もし、アメフトの「戦術分析スタッフ」として活躍、そして監督を4年間も務めたのです。また大学院にも進学し、その後は大学教員として4年間勤め、現在は自分で会社経営をしています。

「もう一度自分の足で立つこと」を目標として、現在もリハビリに懸命に取り組む中村さんに話を聞きました。

首から下の感覚が全くない…

奈良県の天理大学でアメリカンフットボール部に所属し、練習に打ち込んでいた中村さん。アメフトは大学生から始めましたが、練習の成果が実を結び、大学1年生の19歳の秋に初めてスタメンとして公式戦に出場できました。

その試合の後半が始まって5分後くらいのこと、相手の選手と激しくぶつかってしまいます。その瞬間、中村さんの首には衝撃が走り、一瞬のうちに意識を失いました。目を覚ましたときは仰向けに倒れていて、きれいな青空が広がっているのが見えた…といいます。

まだ試合中だったため、チームメイトが中村さんの名前を呼んでいる声が聞こえます。中村さんは起き上がろうとしますが、体が動かず、さらに首から下の感覚がまったくなかったのです。

試合の会場には医師が常駐していたため、すぐに診察を受けますが「腕を動かしてみて」「足を上げてみて」と言われてもまったく反応ができません。医師が太ももを強くつねりますが、何も感じず…。この時点で脊髄損傷による完全麻痺であることがほぼ確定していたと思う…と語ります。

会場から病院に搬送された中村さんは、7時間に及ぶ手術を受けました。手術は成功したと医師から告げられ「よかった、またアメフトができる」と本気で思っていたといいます。

しかし、現実は違いました。
どれだけ時間が経っても体が動かないのです。医師が手術が成功したと言ったのは骨折を治すためのものであり、麻痺を治せるものではありませんでした。

中村さん(@chin_stagram612さんより提供)

もう二度と歩くことはできません

事故から10日後、担当医から「中村くん、これから言うことをよく聞いてください。君はもう二度と歩くことはできません。これからの人生、寝たきりの生活を覚悟してください」と言われます。

この言葉を聞いた瞬間、何が起こったのか理解できなかったという中村さん。
「手術は成功したのに?」「リハビリを頑張れば治るんじゃないの?」とそう思いたかったのに、現実は違ったのです。

それからの数週間は、何度も「自分の人生は終わった」と感じたといいます。
「大学生なのに、友達と遊ぶことも、好きなスポーツをすることもできない。体が動かないというだけで、自分の価値がすべて失われたように思えました」とそのときの気持ちを話してくれました。

当時は寝たきりで首から下がまったく動かないため、食事も自分ではとれない状態でした。また、ベッドを起こすと気を失うという起立性低血圧にも悩まされました。

しかし、3ヶ月後には腕が少しずつ動かせるようになり、装具をつければ何とか自分の手で食事がとれるようになります。そしてリハビリを重ね、車いすで生活できるまでになりました。

身体的な苦労と心理的な苦労

車いすでの生活は「身体的な苦労」と「心理的な苦労」の2つに分けられるといいます。

身体的な苦労については、何をするにも時間がかかることです。たとえば、ベッドから車いすに移るだけでも15〜20分。健常者なら数秒でできることが、中村さんにとっては一つひとつが大きな挑戦になります。また、外出すると「バリアフリー」と言われる場所でも、実際には傾斜があったり、ちょっとした段差があったりするのです。

「車いすで移動して初めて気づく『健常者には気にならない障がい』が、世の中にはたくさんあるんです」と中村さん。

中村さん(@chin_stagram612さんより提供)

次に、心理的な苦労について、中村さんが特につらかったのは周囲の視線でした。外を歩けば、じっと見つめられ「かわいそう」と哀れむ目や「何があったのだろう」と興味本位の視線を感じることがあったのです。ときには、関わりたくないと避けるような目もあったと話します。車いすに乗るだけで、まるで「特別な存在」になってしまったような感覚でした…と語っていました。

「僕自身、事故前は普通にスポーツをして、友達と遊んで、何の不自由もなく生きていた。その生活が突然奪われて、今度は『障がい者』としての人生を歩まなければならない」こうした状況を最初は受け入れられなかったと語ります。

夜、1人になると『「なんで自分がこんな目にあったんだろう?」「もし事故がなかったら、今ごろどんな生活をしていただろう?」と考えてしまい、健常者としての未来と車いすになった自分を比べて何度も落ち込みました』と振り返ります。

「やりたいことを一つずつ挑戦していく」

落ち込んでいる中村さんを変えてくれたのは、お兄さんの存在でした。お兄さんは「お前の力になりたい」と事故をきっかけに、それまでの仕事を辞めて理学療法士を目指すと決めたのです。

そうお兄さんから言われたとき「こんな自分でも、誰かに必要とされている」と初めて感じたといいます。
「どん底にいる自分のことを思ってくれる人がこんな身近にいたんだ…」ということに気づいた中村さんは、もう一度、前を向いて生きてみようという気持ちになりました。

中村さん(@chin_stagram612さんより提供)

そこからリハビリを懸命に取り組み始め、2年間ほど経ち、中村さんは車いすで生活できるようになりました。車いす生活に至るまでは決して平坦ではなく、毎日地道にリハビリに励んだといいます。
中村さんのような首の頚髄損傷の人は、リハビリにものすごく時間がかかり、成果が出ているのかがわからないくらいの地道なリハビリにコツコツと取り組む必要があるのです。それを続けていくモチベーションの維持も大変で未来への不安も重なり、中村さんは悲観的になりました。

リハビリ(@chin_stagram612さんより提供)

しかし、不安から抜け出すために「やりたいことを一つずつ挑戦する」ことを決めました。不安を抑えようとするほど逆に強くなるものですが、何かに没頭している間は、不安を感じにくいと気づいたのです。

そこで最初に挑戦したのが漢字検定でした。中村さんはもともと漢字が好きで大学生になったら検定を受けようと思っていたのですが、事故で叶わなかったのでリハビリを兼ねて勉強することに。その当時は指が動かない状態だったため、お母さんに頼んで指にペンを包帯でぐるぐる巻きにしてもらい毎日2~3時間、ゆっくりと書きながら必死に勉強しました。必死に漢字を書いている間は、不思議と不安は感じなかったのです。

当時はパソコンが使えなかったため、スキルを学びました。
「できること」に目を向けるようになったことで、未来への希望が生まれてきました。

そして、中村さんは大学に復学をします。復学後、一番したかったことは「グラウンドに戻ること」でした。ですが、障がいがあるのでプレイヤーは当然できない、手足が不自由なのでチームのサポートはできない、自分は障がいがあるから何もできない…と落ち込みますが、中村さんは諦めませんでした。

いろいろな人に話を聞いた中で、一つ中村さんにできることがありました。それは戦術を考えることです。アメフトは頭脳戦で、一つの試合をするためには100個くらいのプレーを事前に作っておくといいます。事前準備が大切なアメフトは、良い戦術を考えられれば仮に身体的に劣っていても、相手に勝てるスポーツなのです。

中村さん(@chin_stagram612さんより提供)

そこで、アメフトについてもさらに学び「戦術分析スタッフ」として活動しました。大学に入ってからアメフトを始め、事故に遭ってしまったため、5ヶ月くらいしかプレーしていなかった中村さんは、周りからいろいろ言われることもあったといいます。ですが、大学の勉強と同時にアメフトの勉強も何時間もしたのです。

その努力が認められ、最終的には天理大学のアメフト部監督を4年間務めました。

「命さえあれば、何度でもやり直せる」

2016年にYouTubeを始めた中村さん。そのきっかけは「脊髄損傷についての情報が圧倒的に少なかった」ということからでした。事故に遭った当時、インターネットで調べても医療的な説明ばかりだったといいます。

実際にの障がいを負った人はどう生きているのかがわからなかった…という中村さんは、かつての自分が求めていた情報を発信することにしたのです。

現在の視聴者層は、車いすユーザーよりも健常者の方の方が多いといいます。そうした人から「知らない世界を知れた」と言われると、発信してよかったと感じると話します。また、同じように「大切なものを失った」という経験のある人が、中村さんの話が前を向くきっかけとなったという声も多く「そういった反響は本当に励みになります」と話していました。

中村さん(@chin_stagram612さんより提供)

「命さえあれば、何度でもやり直せる」これが中村さんの一番伝えたいことです。

自身が事故に遭ったときは「もう終わりだ…」という気持ちになりましたが、そこから立ち直ることができました。
「どんなにつらくても、どんなに絶望していても、生きてさえいれば未来を変えるチャンスがある」と話します。

「もちろん、今でもつらいことはあります。でも、挑戦し続けることで、人生は少しずつでも前に進んでいきます」と。

リハビリ(@chin_stagram612さんより提供)

夢は…

夢は、もう一度自分の足で立つことです。
医師には「一生歩けない」と言われましたが、中村さんは諦めません。どんなに時間がかかっても、必ずこの夢を叶えるために今もリハビリを続けているのです。

さらにこれからも、中村さんは「生きているだけで価値がある」ということを伝え続けていくと語ります。

「どんなにつらいことがあっても、人生は終わりじゃない。少しずつでも、前を向いて生きていけば、きっと道は開ける」これが中村さんからのメッセージです。

SNSで発信しているように、過去の出来事は絶対に変えられません。しかし、未来は自分が今からどう生きるかによって変えられます。人生は思ったよりも短いものかもしれません。当たり前の生活に慣れてしまうのではなく、一日一日を丁寧に生きることの大切さに気づかされた人も多いのではないでしょうか。

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