毎年2000~2500人の子どもが新たに発症すると言われ、15歳未満の子どもの死亡原因上位3位以内に必ず入ってくる小児がん。その治療は苦痛を伴う骨髄検査や、つらい副作用のある抗がん剤投与など過酷だ。

そんな厳しい医療の現場で、小児がんと闘う子どもたちを励ますクラウン(道化師)として活動する林志郎さん。クラウンネームは本名をもじった「クラウンシロップ」だ。主に北部九州の小児病棟を訪れ、ジャグリングやパントマイム、マジックなどを披露して子どもたちに笑顔を届けている。
林さんのクラウンとしての活動歴は10年以上。なぜクラウンを始めたのか、その経緯を取材した。

林志郎さん

自身の闘病経験、病棟ボランティアで知ったクラウンの力

実は林さんもかつて小児がんを患っていた。6歳のときに血液のがん、急性リンパ性白血病を発症している。現在、小児がんに罹患した子どもの8割は社会に復帰していくが、林さんが闘病していた1980年代中頃は6~7割が亡くなってしまう病気だった。同じように小児がんで入院していた周りの子どもたちが次々と亡くなっていき「次は自分の番かもしれない」と怯え「寝たらこのまま目を覚まさないんじゃないか」と眠れなくなる日もあった。

闘病中の少年時代の林さん

3年間の闘病生活の末、林さんは白血病を克服。そして29歳のときに、自身が入院していた久留米大学病院の小児病棟で、子どもたちの遊び相手をするボランティアを始める。その過程で病棟に東京から2人のクラウンを呼ぶことになり、病院とクラウンの間を取り持つコーディネーターとしての活動も開始した。当時九州の病院にクラウンが訪れた実績はほとんどなく、訪問当日にその様子を初めて目の当たりにした林さんは衝撃を受ける。

「病棟内では子どもたちは痛がっていたり、つらかったり、どこかで常に泣き声が響いています。でもクラウンたちが入っていくと、そんな病棟の中で、あっちからもこっちからも笑い声が聞こえてくるんです。それはもう、色をなくした枯れ草ばかりの冬の草原に『ぽっぽっぽっぽっ』と花が咲いて、色が付いていくようでした」

今でも忘れられない光景がある。

「病室を一つ一つ回っていく中で、植物状態で寝かされているお子さんの横で、お母さんが表情もなくただ茫然と座っている状況に遭遇しました。私は正直『ここにクラウンが入っていったところでどうにもならない』と思ったのですが、クラウンたちは躊躇なく入室していき、一人のクラウンがウクレレで優しい曲をゆっくりと奏で、もう一人のクラウンはそのメロディーに合わせて歌を歌ってくれました。そして最後のフレーズを弾き終えたとき、お母さんが『来てくれてありがとうございます』と涙を流されたんです。直面しているのは悲しい現実であることに変わりはありません。でもその場面に胸がとても熱くなり、クラウンの持つ力の大きさを強く感じました」

こうちゃんとの出会い、クラウンへの決意

病棟にクラウンを呼ぶことになったのは「こうちゃん」という8歳の男の子との出会いがきっかけだった。こうちゃんはかつての林さんと同じように小児がんと闘っていた。

こうちゃん(手前)と林さん(右から2番目)。 こうちゃんの主治医(左から2番目)は林さんが10歳頃の治療最終期の主治医と同じ方だった

「すごく純粋で可愛くて優しい子で、こうちゃんに会いたいがために何度も病棟ボランティアへ行っては、必ずお見舞いをしていました。でもあるとき、がん細胞が骨に転移していることがわかったんです」

骨への転移が認められると、それ以上の治療は難しくなり、終末期の緩和ケアへと移行していくことになる。クラウンを招待したのは、そんなこうちゃんを励ましたいとの思いからだった。

だが遠方から彼らを呼ぶには、その度に病院とクラウン双方のスケジュールを調整しなければならず、謝礼や交通費の支給など都度お金もかかる。ボランティアでそう何度もできることではなかった。3度目の病棟訪問終了後の控室、林さんはクラウンたちへ、この活動をなんとか継続させる方法を模索していると相談した。すると彼らから思いもよらない言葉を返される。

「あなたがクラウンになったらいいんじゃない?」

クラウンたちへは自身が小児がんの経験者であることを伝えてはいた。しかし自分がクラウンを演じる選択肢などまったく頭になかった。答えに窮する林さんにクラウンたちはこう続けた。

「僕らがクラウンとして病棟に入ることはできるよ。だけど小児がんの経験がない僕らには、子どもたちの気持ちを理解しきれないところがやっぱりあるんだ。もちろん精いっぱい頑張るけど、これ以上は詰めきれない最後の垣根がどうしてもある。でも志郎くんだったら病気の子どもたちの気持ちがわかるでしょ?そのあなたがクラウンになれば、小児がんの経験がこれ以上ない最高の武器になるんだよ。どのクラウンだって太刀打ちできない」

この言葉をきっかけに林さんはクラウンになることを決意。こうちゃんにそのことを伝え、クラウン姿を披露する約束も交わした。こうちゃんは「がんばってね!応援するよ!あ、クラウンになるのにもいろいろとお金がかかるでしょ?」と、10円玉をくれた。クラウンになると決めてから林さんが受け取った初めての募金だった。

「クラウンになった姿を誰よりもこうちゃんに見せたい」

そう思って芸の練習に打ち込んだ。しかしクラウンデビューする前にこうちゃんは容体が悪化し、息を引き取ってしまう。約束は果たせなかった。その日の夜、目標を失った林さんは、指導をしてくれていた師匠のクラウンに電話で泣きながらその事実を伝えた。師匠は林さんにこう諭した。

「ここでやめたらダメだよ。こうちゃんに見せてあげられなかったのは本当に残念だけど、同じように病気と闘っている子どもたちは世界中にいるんだ。その子たちのためにもクラウンになって、こうちゃんに見せられなかった分、たくさんの子どもたちに笑顔を届けなきゃ」

そうして、こうちゃんが亡くなってから3カ月後の2010年10月17日、林さんはかつて闘病生活を過ごした久留米大学病院の小児病棟で、クラウンデビューを果たした。それは同時に、自身が小児がんを経験したクラウンが、日本で初めて誕生した瞬間でもあった。

先輩クラウンのリードのもと、「クラウンシロップ」としてデビューした林さん(左)

クラウンデビューした日の様子

笑ってもらえることだけではなく、続いていく交流も喜び

それから今日まで13年間、林さんは九州各地、関西、関東、さらには海外の病院へも出向き、子どもたちの命と向き合ってきた。悲しい別れを経験する一方で、その家族や退院した子どもたちとの交流も続いている。

ある白血病当事者の男の子たちには皿回しを勧め、林さんと3人でチームを組み、2023年10月に開催されたスポーツ皿回し大会にも出場した。皿回しは上達を実感しやすいのだという。

「闘病中の子どもたちは、今まで当たり前にできていたことができなくなっていって、いろんなものを奪われる喪失感をいっぱい経験します。そんな中で、ちょっとの練習で達成感を味わえるのはめちゃくちゃハッピーなことなんです。皿回しにはそんな利点があるんですよ」

小児がん当事者の子どもたちと参加したスポーツ皿回し大会の様子

そして今こうちゃんのお母さんは久留米大学病院で、小児がんの子どもたちの親の会の代表を務めている。2023年12月にはこうちゃんのお母さんや他の保護者たちと一緒に、病棟の子どもたちへ文房具やバルーンアートのクリスマスプレゼントを配って回った。

病棟の子どもたちへクリスマスプレゼントを配って回った。左はバルーンパフォーマーyaco(写真は久留米大学病院ではなく九州大学病院での様子)

「目の前で笑ってくれるお子さんや親御さん、ドクターたちの笑顔を見ていると『やっててよかったな』ってもちろん思います。でもそれがゴールではなくて、こうやってそこから続いていくエピソードもすごく大きな喜びになっているんです。僕はきっとこれからも、この活動を続けていくと思います」

そう語る林さんの傍らにはいつも小さなアルバムがある。クラウンを演じる際に必ず持ち歩いているこのアルバムには、クラウンを始めてから出会い、亡くなった子どもたちの写真が収められている。

「今のこの活動が何のためなのかを忘れないための原点です」

アルバムの1ページ目はこうちゃんの写真だ。そしてこうちゃんからもらった10円玉は、今も大切にしまってある。

亡くなった子どもたちの写真が収められているアルバム

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