「老いても嫁の手を煩わすことなく、健康で幸せな生涯をまっとうできる」という霊験があるとされる「嫁いらず観音院」が有名な岡山県井原市の大江地区。豊かな自然の中で、ウコン・ニンニクといった特産品開発にまちぐるみで取り組む地域です。

そんな大江地区の丘の上の集落に、「ねこのひたいの宿 山王ちぐら」が2020年2月22日にオープンしました。「キジトラ招福堂」の小泉登さん・早都紀さん夫妻が営む農家民宿です。

キジトラ猫姉弟、「ちぐ」と「ぐら」が看板猫を務める。写真はちぐ。

ジビエ肉とどぶろくづくりも行っています。ジビエ肉は登さんが有害鳥獣対策の一環で仕留め、精肉まで手掛けるイノシシやアナグマ。

左上:イノシシのロース、下:イノシシのアバラ、右上:アナグマのモモ。アナグマはブドウ畑にやってくるのだそう。

どぶろくは大切に育てた自家製米を使い、早都紀さんが糀づくりから瓶詰めまで手作業で仕上げます。

商品のパッケージのデザインはすべて早都紀さんが手掛けている。

三刀流の暮らしが生まれたわけ

ジビエ、どぶろく、農家民宿。自然の恵みとともに生きる、三刀流の暮らしはどのように誕生したのでしょう。

小泉さん夫妻が2016年に井原市に移住したきっかけは、大阪府で開催された岡山県の移住相談イベントでした。「田舎暮らしをして野菜をつくってみたい」というぼんやりとしたイメージでしたが、もともと料理が大好きな2人は、自分たちの手で暮らしをつくることが夢だったのです。

大江地区がウコンの六次産業化に力を入れ、サポートしてくれる地域おこし協力隊員を募集していると知り、興味を持ちます。都会で働くサラリーマンだった2人は、理想の暮らしに向けて新たな一歩を踏み出しました。

大江地区の住民となり、地域の人たちと一緒にウコン・ニンニクの六次産業化や、嫁いらず観音院前で月に一度開催する「観音マルシェ」の運営に携わりました。そして今後も暮らし続けるために、個人の取り組みとして、登さんは狩猟を、早都紀さんはどぶろくづくりを学んでいきます。

小泉登さん

憧れていた“農”ある暮らし。地域のリアルな悩みは、畑を荒らし、農作物を食べるイノシシでした。有害鳥獣対策として狩猟を積極的に学び、猟友会の駆除班に入った登さん。年間を通してイノシシなどの駆除を行なう中、「野生動物の命をムダにしたくない」という気持ちから、ジビエ肉としての利活用を志すようになりました。

ジビエ肉を販売する上では、技術習得のほかに加工場所も課題でした。動物を解体する際には血が流れます。家主や近所の人の許可が出ても、山のふもとの地域からNGが出ることもあり、難しいそう。複数の場所を検討した結果、すでに解体を行っている井原市内の別の地区の人のスペースを借りることに。また、解体後、精肉する場所も課題でした。当時の自宅には、適した部屋がなかったのです。

小泉早都紀さん

一方、どぶろくづくりも「場所」という課題に直面していました。キジトラ招福堂では、岡山県井原市で認定された「ぶどうの里 井原ワイン特区」における、どぶろく特区の制度を活用しています。その条件は、①自ら生産した原料で酒を製造すること、②農家民宿や農家レストランなどで酒類を提供する農業者であること、など。

大江地区は米どころです。誇りを持って米づくりに取り組む地域の方たちのサポートを受けながら、自家製米に取り組みました。2つ目の条件、農家民宿はどこでやろう。そして肝心のどぶろく醸造所も、場所が決まっていなかったのです。

どぶろくのほか、生糀や糀とニンニクを使った調味料も手掛ける。

運命の場所との出会い

地域に空き家は増えてはいるものの、状態が良くすぐに入れる物件は少ないのが現状です。「大江地区にはもうない」と諦め、近隣地区の物件探しを始めていた頃、ついに理想の拠点に出会います。それも大江地区内で!

別の物件見学の帰り道、ふたりの話を聞いた地元の方が「ここのほうがおすすめだよ」と教えてくれたのです。なんと、雑木林だと思っていた場所に家屋がありました。夜に訪れたため中の様子はよく見えませんでしたが、「広くて状態がいい」というお墨付きで、即決断。

雲海が見える日もあるという農家民宿の寝室

「12畳の離れをどぶろく醸造所にしよう」、「見晴らしのいい2階は農家民宿の寝室」、「物置は精肉スペースにちょうどいい」。3つの構想がひとつにまとまり、2019年2月に引っ越し。家屋を隠していた雑木林は、地域の人に協力してもらい、畑に生まれ変わりました。

どぶろく醸造所

2020年2月22日に農家民宿をオープン以降、コロナ禍が続いていますが、食育や田舎暮らしに関心がある人を中心に、宿泊客が訪れています。ジビエ料理やどぶろく、糀を使った甘酒などを、マルシェで販売することも。

「マルシェでは、違うことをしているようで同じことを考えている、そんな人たちとの出会いもあり、充実しています。これからもいろいろな交流をしていければなぁと。いったん、やりたかったことはひと通り形になったけれど、完成したとは思っていないんです。これからどうしていこうか、それは日々、考えること。今後もきっと、『完成』はないのかなとふたりで話しています」と登さん。

草刈りや田んぼの確認など、「やることに追われ、思っていた以上に大変」と話しながらも、2人からは充実感が感じられます。すぐそこにある豊かな自然と、周りの方々との交流を糧に、小泉さん夫妻の「完成しない」暮らしづくりは進んでいきます。

この記事の写真一覧はこちら