24時間、身体に激痛が走り続ける難病「線維筋痛症」を抱えている、江夏明希さん。19歳のときに突然痛みに襲われた江夏さんは、病名がわかるまでに1年かかり、さらに現在も毎日痛みと闘っています。現在は「つらい経験をしたからこそ皆を笑顔にしたい」とタレントとして活動。
今回は「線維筋痛症」という病気のことや、タレントとして活動する理由などを聞いてみました。
※線維筋痛症…全身に痛みや圧痛、こわばり、倦怠感などの症状が現れる慢性疾患
19歳のときに突然の痛みが…
病気になる前は、とにかく活発だったという江夏さん。幼少期から体を動かすことが大好きで、ダンス・体操・空手などさまざまな習い事に通っていました。
学生時代はバスケットボール部やソフトボール部に所属し、大学ではバドミントンサークルに入って、アルバイトも3つ掛け持ちしていたほど。体力には自信があり、毎日駅から大学までの20分の道のりを走って通学していたといいます。
ところが2020年4月19歳のとき、突然、江夏さんに異変が。微熱が出たあと臀部に激痛が走るようになり、次第に足、腰、背中へと痛みが広がっていったのです。さらに痛みだけでなく、全身のこわばりや動けないほどの倦怠感まで感じるように…。

その原因を探すために病院へ行きましたが、あらゆる検査を受けても異常がなく、最終的には「精神的な問題だ」と決めつけられるようにまでなりました。
「どれだけ痛みや苦しみを訴えても、医者に信じてもらえないことが何よりもつらかった」と江夏さん。
「これだけ痛いのになぜわかってくれないの」と病院から帰るたびに、涙が止まらなかった…と当時のことを振り返ります。
その後も、トリガーポイント注射や麻酔注射、ブロック注射、薬を服用しながら過ごしていましたが、症状が改善するどころか痛みは増すばかりだったのです。
※トリガーポイント注射…痛みのある筋肉に注射を打つことで痛みを緩和する治療法
『線維筋痛症』と診断
そしてようやく1年後に線維筋痛症と診断されました。線維筋痛症とわかるまで、30以上の病院を巡っていました。
病気がわかった瞬間、江夏さんは診察室で号泣したといいます。
「本当に激痛が走っている、とやっと伝えられた気がして、言葉にならないほど嬉しかったです。誰にも理解してもらえなかった1年間でしたが、病気だったと証明され『やっと信じてもらえる』という安堵感と、救われた気持ちでいっぱいでした。今でもそのときの光景を鮮明に覚えています」と語ってくれました。
2020年の4月、突然痛みが出るまでは、体力には自信があった江夏さん。しかし、発症後は生活が一変します。一時はまったく歩けず、車いすでの生活を余儀なくされました。そして現在も杖を手放せません。またスポーツはもちろん、階段の上り下りや長距離の移動も困難になりました。
ほとんどの時間を横になって過ごし、起き上がっていられる時間はとても短いといいます。調子の悪い日は、洗顔や歯磨き、食事をすることすら困難で、寝ているだけで1日が終わることも。
「症状には波があり予測ができないため、予定を立てることも難しくなりました」と話していました。
痛みは24時間365日、常にある中でタレント活動を
線維筋痛症の痛みは24時間365日続いており、江夏さんは毎日痛みと闘っています。痛みがゼロになる瞬間はなく、その状態がベースにある上で、症状が和らいだり悪化したりという波があるといいます。1秒ごとに痛みの質や強さ、その他の症状が変化するのです。
そうした状態でもタレントとして活動をしています。その理由は、タレント活動が「生きがい」だからです。
「その時間はとても楽しく、アドレナリンが出るおかげで普段よりも体が動きます。活動中は痛みを少しだけ忘れることができるのです」と。

しかし、撮影中に突然立っていられなくなったり、言葉が出てこなくなったりなど、どうしてもつらいときもあります。そんなときには、事務所の社長さんやスタッフの方々が休憩を促してくださったり、横になれるように調整してくれたりします。
「周囲の理解とサポートがあるからこそ、活動を続けることができています」と話していました。
社会的支援の壁
江夏さんは、社会において線維筋痛症の認知度が低いがゆえに、診断後も社会的支援の壁に何度もぶつかり苦労をしたといいます。それは身体障害者手帳を申請しようとしても、対応してくれる医師が見つからなかったことや、都道府県によって申請の可否に差があることなどでした。
また就職においては、障害者雇用の枠はあっても、比較的体調が安定していることが前提の求人が多いため、江夏さんのように「日によって働ける日と働けない日がある」「突然動けなくなる」といった人を想定した雇用はほとんど存在しないのです。
在宅ワークであっても、長時間座っていられない、パソコン画面を見続けられないという事情があります。
「寝ながらでも取り組めるような仕事が必要ですが、そうした柔軟な働き方に対応している職場が少ないのが現状です」と苦労していることを話してくれました。
線維筋痛症は365日24時間痛みと闘っていても、目には見えないのが現状です。

江夏さんは、ヘルプマークを付けていても、見た目が元気そうに見えるため、席を譲ってもらえないことがあったり、逆に「若いのにどうして座っているのか」と睨まれたりする経験もしました。
「目には見えない病気に対する理解もまだ十分とは言えないため、社会全体にもっと理解が広がることを願っています」と語っていました。
そんな江夏さんの苦しい毎日を支えた3名の方がいます。
1人目は、江夏さんの親友でした。江夏さんが絶望の中で誰にも連絡ができないときも、親友は「大丈夫?」と聞くだけでなく、毎日「今日ね、こんなことがあったよ」と普通の会話を送り続けてくれたのです。
「この無言の優しさと、毎日変わらず話しかけてくれるその姿勢に何度も救われました」といいます。
時には手紙をポストに入れてくれたり、江夏さんの好きなケーキをそっと届けてくれたり。手紙には「いつでも味方だから」と温かい言葉が綴られていて、読みながら涙が止まらなかったことを覚えています…と語ります。
「その優しさと、私の存在を覚えてくれていることに安心感を得ることができ、とても救われました」と、親友の存在は江夏さんにとって本当に大きな支えとなりました。
2人目は江夏さんの大学時代の恩師で、身体のことだけでなく、精神的な面でも支えてくれたといいます。ある日、もう限界で生きる希望を見失いかけていたとき、泣きながら電話をしたときもすぐに家まで駆けつけてくれたのが恩師でした。
「話を聞いてくれたうえで、これからのことを一緒に考えてくださいました。非常に心強く、何度も助けられました」
そして誰よりも支えてくれたのは、江夏さんのお母さんでした。病気が見つかってから5年、365日、毎日ずっと江夏さんのそばで一緒に闘ってくれたのです。お風呂で体や髪を洗ってくれたり、自分で食事を摂れないときは口元まで運んでくれたりしました。
また、流動食しか食べられないときは、江夏さんの好きなものをペースト状にしてくれたときもあったのです。
「どれほど疲れていても、私を最優先に支えてくれる母に、言葉では表せないほど感謝しています。母の存在がなければ、今の私はいません」と語ってくれました。
「私にしかできないことがあるのではないか」
もともとは保育士を目指していたという江夏さん。保育士は幼少期からの夢でした。
保育士を目指すために、大学でもその夢に向かって全力で勉強する毎日でした。しかし、病気になって実習に行けず、夢を諦める決断を迫られてしまったのです。江夏さんの心の中では「もう無理かもしれない」と感じていてもすぐには諦められず、体が悲鳴を上げる中でも通学し、必死に単位を取ろうとしていたといいます。
しかし「現実には勝てず、夢にしがみついていた自分と、現実の体とのギャップに深い葛藤がありました。保育士になる夢しか考えていなかったからこそ、未来が途絶えたとき、先が真っ暗に感じられました」と。

人生が180度変わってしまい、想像を絶するほど苦しい日々を過ごしていた中、新たな夢へのきっかけとなる出来事がありました。
きっかけは、テレビ番組から流れてきた障がいのある子どもが発した「みんなにできて、自分にはできないことがある。でも逆に、障がいのある自分にしかできないことがある」という言葉でした。
その言葉に心を打たれた江夏さんは「線維筋痛症になった私にしかできないことがあるのではないか」と思うようになります。
「ただ『痛い』『つらい』と苦しんでいるままでは、一生何も変わらない。私のように線維筋痛症で苦しんでいる人が、今この瞬間にもいる。その人たちが少しでも救われるきっかけを作りたい…」そう考えるようになったのです。
そこで、どうすれば多くの人に届けられるか考え、やっぱり「メディアの力」を借りたいと思った江夏さん。江夏さん自身がテレビからの言葉を受け取って生き方が変わったように、今度は自分が発信する側になることで、同じように誰かの心に届く存在になりたい…という思いから、タレントという道を選ぶことにしました。


線維筋痛症という難病になる前と後で、江夏さんの考え方にどのような変化があったのかを聞いてみると、自分のためではなく「誰かのために生きたい」と思うようになったということでした。
「自分がつらい経験をしたからこそ、同じようにつらい思いをしている誰かにエールを届けたい、そんな人に寄り添える存在になりたいと思うようになりました」と語ります。
また、江夏さん自身が病気になって気づけたのが「人の温かさ」でした。以前の江夏さんは、人に頼ることが苦手だったのです。
「正直、頼ったところで、結局誰も助けてくれないと思っていましたし、全部自分でなんとかしなければと無理をしていました」といいます。
しかし、病気になってたくさんの人が手を差し伸べてくれました。親友の何気ない連絡、恩師の言葉、そしてお母さんの存在など、誰かの言葉や行動に、何度も何度も救われてきました。この経験から、人の優しさや温かさに初めて気がついたと話します。
だからこそ、今は「支えてもらった分、今度は私が誰かを支えたい」という想いで、江夏さんは生きているのです。
江夏さんは線維筋痛症となり、毎日が地獄のようで、本気で自ら命を絶とうとしたこともありました。
「でも、そんな時期を乗り越えたからこそ、今は『どう生きるか』を心から大切にしています。一度失いかけた命だからこそ、今は楽しいことや、やりたいことに全力で取り組みたい。人生は一度きり。ならば私は、楽しいことをして自分らしく生きていきたいです。世間が決めた『普通』や『当たり前』に縛られず、私は私の人生を、私のやり方でまっとうしたい。そう思えるようになりました」と話してくれました。

同じような思いをしている誰かにエールを届けたい
今後、江夏さんが活動を通して伝えたいことは3つあります。
1つ目は、線維筋痛症という病気のリアルな姿や現状を知ってもらうことです。
この病気の存在をまだ知らない人が多いからこそ、まずは「知ってもらう」ことが大切だと語ります。
「線維筋痛症を発症し、何度もつらい思いをしたからこそ、同じように苦しむ人がこれ以上増えないように、誰もが当たり前に線維筋痛症という病気を知っている社会にしていきたいと思っています」といいます。
2つ目は、つらい日々を過ごしている人にエールを届けたいということ。
「どんなに真っ暗な日々が続いても『明けない夜はない』と信じてほしい。私の活動が誰かの希望の光となって、もう少し頑張ってみようかな…と思ってもらえたら、とても嬉しいです」と話します。
そして3つ目は「例え病気になっても、挑戦をやめなくていい」ということです。難病になったことで、多くの夢や目標を諦めてきた江夏さん。だからこそ、今はやりたいことに全力で挑戦する姿を発信して、過去の私のように「病気だからもう何もできない」と感じている人や夢を諦めようと思っている人が、私の姿を見て挑戦するきっかけになれば幸いです…と話していました。
「私は、私自身の人生を思いきり楽しみながら、その姿を通して、誰かに生きる力を届けたい。そして、誰かの人生にそっと色を添えられるような存在でありたいと、心から思っています」とも語ってくれました。
江夏さんが発信しているSNSには、同じ線維筋痛症の人からもコメントが寄せられています。中でも「痛みの強さを言葉で伝えるのが難しい」「我慢が足りないと言われる」などが印象に残りました。
江夏さんがSNSの中で「全身が骨折するような痛み」「ガラスの破片が刺さる痛み」などと発信することによって「その痛みです」という声や「そんな痛みがありながらも、こんなに素敵な笑顔を見せてくれて感動です」などというコメントもありました。江夏さんの活動は目には見えない病気で苦しんでいる人や、病気ではない人に今も力を与えて続けています。

