甲子園という舞台で繰り広げられる、華々しいプレーを支える裏方が存在する。グラウンドの土や芝生の状態を管理・整備するグラウンドキーパーだ。プロ野球や高校野球ファンの間では知る人ぞ知る存在。ここ数年はSNSにより、全国区で注目を浴びるようになった。2021年の夏の甲子園。天候不良により3日連続で順延となった翌日に、雨が弱まった直後から1時間足らずでグラウンドを整えた「神整備」は、とりわけ人々の記憶に新しい。
グラウンドキーパーの何がそんなに人々を惹きつけるのか。当事者にやりがいを尋ねようと、阪神甲子園球場のグラウンドキーパー歴34年という、阪神園芸 スポーツ施設本部 甲子園施設部長の金沢健児さんに話を聞いた。

雨上がりのグラウンド状態は最高になる

取材の日は雨上がり。容赦なく照り付ける太陽に、取材をしていた観客席も蒸し風呂状態だった。異常な暑さに動じることもなく、黙々と作業をするグラウンドキーパーたち。整備カーの走行音だけがブーンと大きく響いていた。

暑さの中、黙々と作業を続けるグラウンドキーパー

「雨上がりで、時間をかけて整備ができる時は、グラウンドは最高の状態になります。今日は最高です。選手も今日のグラウンドはいいなって思ってくれると思う」

汗を垂らして熱心に整備をするグラウンドキーパーたちを見つめながら、金沢さんが口を開いた。

雨が降った後は、下から湿っている土を掘り起こし、太陽に当てて順に乾かしていく。この作業を繰り返しながら、ローラーで固めていくという。

「乾かし過ぎると、ローラーで締めようとしても固まらないので、色を見て判断します。土が白ければ乾いている証拠ですが、表面上乾いているように見えるだけで、混ぜると湿った黒い土が出てきます」

乾きすぎると固まらず、湿りすぎていても泥のようになり固まらないという。ちょうどいい具合を見極めて、「上から水をかけるとちょうど吸ってくれる」土の状態をつくるという。

夕方からの試合に向けて懸命な整備が続く

プロフェッショナルと興行の狭間で

雨予報の日は、グラウンド全体に雨除けのシートを張ることもあるという。

「保険代わりにシートを張っておくと、雨さえ上がれば試合ができます。でも張ることで土に水分が行きわたらず、ボールは跳ねやすくなります。実際、シートを張ると選手は嫌がります」

取材の前日は台風通過の予報があった日。強風予報の日はシートを張らないという決まりがあるため、雨上がりだった取材日には水をたくさん含んだ土が現れた。土が雨水で潤ってこそ、理想のグラウンドができ上がるというのだ。

トンボで土を均すグラウンドキーパー

「シートを張らなくても、普段から土の状態を整えているグラウンドは水はけがいい。選手は僕たちのことを信頼してくれて、『シートは張らなくていいでしょ』と言ってくれます。ただ、興行の面では、シートを張らざるを得ないときもあります」

興行とプロフェッショナルの間で揺れるとき。ある選手から言われた、『その状態でプレーするのがプロ野球選手。いつでも自分の思い通りの環境になるわけではないのだから』という言葉が脳裏に浮かぶという。

選手たちとはほぼ毎日顔を合わす。その中で「良いグラウンドを作ってくれてありがとう」と言ってもらえることも、やりがいの一つ。

「若かった時、声をかけてもらえると、すごく嬉しかったですね。今の若い社員も、選手から頼りにされることが、やりがいになっていると思います。プロ野球の球場で、内野全体に土を使用しているところは他にはありません。土の状態でバウンドに変化が出るので、選手も神経を使います。アマチュア時代にやってきた他のグラウンドと比べて、状態が良いことでリスペクトしていただいている。期待に応えないと、という思いは常にあります」。

34年間変わらない思い

金沢さんと甲子園球場との出会いは、母親が甲子園球場に勤めていたことがきっかけ。小学校の頃から出入りし、グラウンドキーパーに遊んでもらったこともあったそう。中学2年生のとき、グラウンドキーパーの長に声をかけられ、高校野球の得点版のアルバイトを始めた。

「中1まで熱中していた野球は、肩を痛めて辞めることになって。野球が好きなら家で見ずに、球場に来て見ろと言われました。当時は中学生が働くのはまずかったので、見つからないようにスコアボードの中に隠れていましたけどね」

阪神甲子園球場外観

高校生になると、グラウンド整備のアルバイトを始め、高校を卒業すると同時にOA機器を販売する会社に就職。2年経ち、一生続けていく仕事なのかと葛藤していた頃、母親伝いにグラウンドキーパーの欠員を聞かされて甲子園球場に舞い戻ってきた。

そこから34年が過ぎた。入社した頃、年の離れた先輩が数年で辞めてしまい、まだ20代だった自分に重責がのしかかってきたこと。水はけが悪かった芝生を、試行錯誤して水はけの良い芝生にしたこと。Jリーグの発足や阪神淡路大震災、そして妻との出会い。いつどんなときも、甲子園球場とともに人生を歩んできた。

「入った頃は3Kの仕事なんて言われてね。当時は胸を張って、自慢できるような仕事ではなかったんです。2000年代に入ってからタイガースが強くなって、甲子園人気も再燃して、それに伴ってグラウンドも注目してもらえるようになりました」

スタンド席から見た甲子園球場

今、阪神園芸にはグラウンドキーパーの仕事を志望して入社する若者が多い。グラウンドキーパーという仕事に価値を見出し、自ら手を挙げてくれる若者が増えた現状は喜ばしいとしつつも、金沢さんは次のように話す。

「阪神園芸に勤めていると胸を張って言ってくれていたら、それはとても嬉しい。でも、変に値打ちこくのは違う。卒なく淡々とこなすのがグラウンドキーパーの仕事。しんどそうな態度を見れば、『どんな仕事でもしんどいのは一緒。やるときはやらなあかん』と伝えます。その代わり、試合中の3・5・7回の整備とトラブル時以外は好きな野球を見ることができるので、こんなにいい仕事はありません。若い子たちには、好きで入ったなら頑張れという話をします」

次の100年も良いグラウンドに

取材中、決して一人の力ではできない仕事だと何度も口にした金沢さん。力を合わせる仕事ゆえに、個々の達成感は感じにくいという。若い社員たちには、「ここに自分がいないと良いグラウンドはできない。自分の力はすごく大事だと思って欲しい」と願う。

甲子園球場は2024年8月に100周年を迎える。

「次の100年も、緑の芝と水はけのいい黒い土のグラウンドを見ていたいですね。次の世代に整備のノウハウを伝えて、これから先もずっとこの光景を維持してもらいたい」

グラウンドを見つめる金沢さんの後ろ姿が、甲子園球場とともに歩んできた歴史を物語っていた。

グラウンドを見つめる金沢氏

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