「あきえ…、まさえ…、………」と九人の孫、十三人の曾孫の名前がすらすらと出る。まずはその記憶力に驚かされるが、それも今は亡きご主人を始め義兄、義弟夫婦を含めて七人が学校の先生という教員一家のなせる術だからか。

当のご本人は六人姉妹の長女で、女学校・家政専門学校を経て太平洋戦争はじまる昭和十六年四月、教職の世界へ入られた。以来三十余年、当時の男性社会の中にあって女性としての自負と誇りを教鞭をもって生きることの手本とされ、多くの教え子から慕われた。

その生きざまは退職後も一宮町界隈の老人会の世話などで生かされることに。バザーや文化祭などあらゆる事業に参画できたのは四十二歳で軽免、六十五歳で普通免のおかげで、積極的な行動力抜きに敏子さんを語ることはできない。

平成8年 県老連女性副委員長当時

いかにも家庭科の先生らしく、飾ってある二、三十センチほどのミニ着物が微笑ましい。白寿まで続けた敏子さんの手縫いだそうだ。

百歳を超えた今も読み書きはすらすら。杖を手にしてはおられるが体力に不安はなさそうなので、樹木や花や石で見事に設えられた日本風の庭園に出ていただいた。「庭の造りも私好み。毎日の手入れが生きがいでね」とはにかむ。

二十年前に先立たれたご主人への悲しい思いも、時の総理大臣から贈られた百歳を祝う寿詞に救われたと深く感動した。

公民館で仲間と共に毎週二回『生命の貯蓄体操』なるものを六十五歳から九十半ばまで続けたことも健康の支えになったかも知れない。「継続は力なりですよ」と敏子さんの口から出るとその説得力は大きい。その上で長生きの秘訣を「すべてに感謝すること」だと結んでくださった。その徴に自ら育てた庭の花を誰彼となく差し上げているそうだ。

朝食は自炊。食欲旺盛で肉、魚、野菜と何でも食べて元気をつける。そんな日がまだまだ続くことをお祈りしたい。

この記事の写真一覧はこちら