痛みを感じる脳神経の信号が乱れ、一般的な人よりも痛みを強く感じる「線維筋痛症」は目に見えない病気。病気が発覚するまでに時間がかかったり、周囲からの理解が得られず当事者が苦しみを抱えてしまったりするケースも多い。
門馬美輝さんは、中学生のときに「線維筋痛症」を発症。周囲の理解が得られなかった経験から、障がい理解に尽力するようになった。

中学生の時に線維筋痛症を発症した門馬美輝さん

経験したことのない激痛が左肩に走って

中学3年生になった、ある朝。経験したことのない激痛が左肩に走った。痛みは日が経っても治まらなかったため、門馬さんは湿布を貼ったり、マッサージやカイロプラクティックへ行ったりして対処することに。

「家族に痛みを訴えても、信じてもらえませんでした。『あんたは、いつも寝てばっかり』『若いんだから、しっかりしなさい』『甘えるな』など、毎日言われました」

高校生の頃は、片道2時間もかかる通学が負担に。そして高校3年生の夏、症状は悪化。食欲がなくなり、体重は40kgほど、体脂肪率は5%となった。

「笑うことが難しくて無表情だったので、愛想のない子と思われていました」

誰にも理解されない痛みと闘いながら、門馬さんは新卒で化粧品会社に就職し、その後、物流会社へ。しかし、そこでは会社都合で異動となり、通勤に片道2時間かかる日々。

そんな暮らしを送る中で、さらに症状が悪化。痛みが激しくなったため、自宅から近いハウスメーカーへ転職。「誰にも理解されない痛み」にようやく名前がついたのは、転職から2ヶ月後のことだった。

通院時の1枚

苦しんできた痛みに「病名」がついた

当時、28歳だった門馬さんは、自分が感じていた痛みが病気だったという事実に驚くと同時に、「この痛みは治るのかな」「病気なら周囲は苦しみを理解してくれるだろうか」と期待した。しかし、現実は厳しかった。

「病気と診断されたことは黙って働き続けましたが、診断から4か月後にバレてしまいました。それまでは仕事っぷりを高く評価されていましたが、病気だとわかった瞬間、手のひらを返されました」

仕事はできても、病人はいらない。人事課長が口にしたあまりにも痛い言葉に、心をえぐられた。

「でも、直属の上司は私自身を認めてくれて、体調を考慮しながら仕事をさせてくれました。もし、そのような人が人事課長だったら、私は働き続けることができたでしょうね。直属の上司のように”相手の気持ちを考えられる人”になりたいと思った経験でした」

そのあと、門馬さんは会社を退職。データベース管理ソフト「Access」を独学で勉強し、現在は通信会社で働きながら、自身が立ち上げたNPO法人「心を結ぶタイヨウハウス」にて、人々が共生できる社会作りのために活動中。YouTubeでは自身の病気を語り、「線維筋痛症」の周知に取り組んでいる。

YouTubeの撮影中

「線維筋痛症」は現段階では投薬治療で症状を和らげることしか治療法がないため、痛み止めとこわばりを和らげる薬を2種類ずつ服用しているが、門馬さんが感じている痛みは強い。例えるならば、刃物を刺され、そのままグリグリと刃先でなじられているような痛みなのだそう。

病気の悪化を防止するため、マスク作りで脳の運動をすることも

「肩をトントンと叩かれると、電気が走ります。痛み以外では上半身のこわばりが酷く、主治医からはコンクリートのようだと。線維筋痛症の痛みは軽症で出産やがん程度、重症ではそれ以上と言われています」

できないことを助け合える「共生社会」を作りたい

「線維筋痛症」の決定的な病因はまだ明らかになっていないが、門馬さんの場合は担当医と話した結果、過去のトラウマ体験が大きく関係しているのではないかという結論に至ったそう。

「6才の頃に麻酔無で右ひじの手術をしたことがトラウマとなって、脳が痛みを覚えてしまい、痛みに過敏になる「線維筋痛症」となったようです。そして、4~20歳まで受けていた虐待も発症原因のひとつなのだそうです」

そう打ち明けてくれた門馬さんは今、障がい者寄りになりすぎないフェアな視点から心のバリアフリーを訴え、健常者と障がい者の間にある垣根を取り払おうと奮闘している。

臓器移植のシンボルマーク「グリーンリボン」を用いた「心を結ぶタイヨウハウス」のロゴ

「健常者と障がい者の常識には、違うところがあると思う。例えば、駐車場の車いすスペース。健常者が停めていると非常識だと思えますが、なかに悪意なく、知らずに停めてしまっている人もいます。知らずにやってしまったことを悪意を持って責めたり、SNSなどに晒したりするのは間違っていると私は思うんです」

心は目に見えない。だからこそ、どんな人の心も大切にするために、「正しいことを正しく伝える活動」をしたい。そう語る門馬さんは障がいの有無に関係なく、誰もができないことや苦手なことを助け合いながら生きていける共生社会の実現を夢見て、これからも半生を伝え続けていく。

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