「わたし、看護師のときから『師長さんと話すんはお泊りセットがいる』いうて言われよったんや~」

明るい声でパワフルに讃岐弁を話す楠川富子さんは、退職後2度のシニア海外協力隊派遣を経て、現在はカンボジアで子どもたちの健康と教育を支援するNGO団体「うどんハウス」を立ち上げ、活動している。

カンボジアの環境に幼少期の記憶を重ねて

楠川さんは1945年香川県綾歌郡(当時)の9人兄弟の家に生まれた。第二次世界大戦が終結したこの頃、日本は戦後の混乱に続く貧困と食糧難にあえぎ、当時の先進国の援助と支援に頼っていた。
5歳のときに妹を病気で亡くし、妹を病院に連れていけなかったこと、助けられなかったことを嘆き悲しむ両親の姿が強く印象に残っている。「人を助ける仕事がしたい」と決意し、看護師になった。

「カンボジアの田舎の方に行くと、私の小さい頃の環境と同じやと思うん」

今のカンボジアも貧困と環境(交通アクセスや労働環境など)が原因で小児の治療は遅れがちで、助かる命が助からない。また、国全体の貧困の中で子どもの教育と命が犠牲になっていると感じたという。

言葉の壁は乗り越えられる

シニア海外協力隊として派遣されたカンボジア国立小児病院では「看護技術」の指導を任されていた。しかし現状を知る中で、技術だけでは解決しない・できない「命の重さ」を教えることにも心を砕いていた。そこで、空いた時間には子どもたちや付き添いの両親と話し、コミュニケーションを取ることにした。カンボジアの公用語であるクメール語は難しく、最初はほとんど通じなかったという。

「私の讃岐弁なまりの言葉では『元気?』『歳いくつ?』『名前は?』の3つしかほとんど通じんかったん」

それでも、笑顔で会話し日常的に接することで信頼関係を結んでいく。そこに意味があると感じた。

2度の派遣で通算4年半の活動では、カンボジア初の「看護部」を立ち上げ、同国の病院組織の近代化と人材育成に貢献した。

笑顔で患者に話しかけ、積極的にコミュニケーションを取った

学校保健教育を広めるために立ち上げ

シニア海外協力隊の活動が終了し日本に帰国した後は、うどんハウスを立ち上げ、これからもカンボジアで支援を続けるために、100回以上の講演をして支援を求めた。自身のがんの闘病で当初の予定より開始は遅れたものの、帰国から3年後、NGO団体を立ち上げ、自宅を処分しカンボジアに移住した。

現在は、カンボジアの学校に保健室を作る活動をしている。手洗いなどの予防医療や衛生教育の普及のためだ。カンボジア初の父兄会も実施し、手洗いや食物教育の重要性を説明した。

「これからの人生は、カンボジアの子どもたちのために学校保健を広めよう思うけん、なにかにやんじょんです」

コロナ禍のカンボジアでその重要性は徐々に認められつつあり、保健室の先生のための大学が設立されようとしている。

NGO団体「うどんハウス」の支援で建設した手洗い場

未来を見据えて活動を続ける

「マダムけんけん」「ネアックルジャポン」楠川さんはいろいろな愛称で呼ばれる。

そしてポンポン飛び出る讃岐弁とユーモラスな語り口調についつい笑顔になってしまう。そこが、世界中で好かれる人柄でもあるのだろう。

学校帰りの子どもたちが、楠川さんと話をするためにやってくる

現在カンボジアは新型コロナウイルス対策のための長期ロックダウン中で、活動の範囲は限られている。しかしコロナ終息後に、「やりたいこと」「やらなければならないこと」がたくさんあると楠川さんは言う。

楠川さんは、きょうも未来を見据えながら日々過ごしている。

「カンボジアを元気にする!シニア海外協力隊-NGOうどんハウス 楠川富子さん写真展」は、6月2日から8月24日までJICA四国フリースペースで開催予定。