人生100年時代といわれる中、60歳を前に早期退職。充実したセカンドライフを過ごす人物が岡山県奈義町にいる。さまざまなスケールの戦艦を中心に、ファンのみならず、見る人全てを魅了する、プロの戦艦プラモデラー野々上秀樹さんだ。

幼少期からプラモデルを作り続け、現在、奈義町に拠点を置き、数名の弟子への指導や、不定期でプラモデル教室を開催するなど、多岐にわたって活躍中。プラモデルに携わり50年。今回は、そんな経歴を持つ野々上さんにプラモデルの魅力について尋ねてみた。

プラモデルとの出会い

子どもの頃、今のようなテレビゲームやパソコンはない時代。周囲には、おもちゃを自分で作る友達が多かった。そんな中、初めて手にしたプラモデルは父親が買ってくれた。夢中になるあまり、両親から「いつまでしとるの!」と怒られることもしばしばあった。

「初めは飛行機などを中心に、いろいろ作っていた。普通なら、中高生で止めるんだろうけど、面白くてねぇ」

海上自衛隊 第3航空隊 P-3Cの模型

奥深いプラモデルの世界

社会人になっても、仕事の傍ら、雑誌やコンテストに飛行機のプラモデルを出品していたが、30代後半、緻密な工作作業の多い船の制作が自分に合っていると感じ、船へ移行。そして出品したJMC模型大会(全国大会)で優勝。それを機に、数多くの専門雑誌や、プラモデルメーカーから試作のオファーが舞い込む。1985年には、岡山県北を活動拠点とする模型愛好家サークル『ルフトバッフェ』を立ち上げ初代、3代会長を歴任する。プラモデルの世界にどっぷりつかるため55歳で早期退職後は本格的にプロとしての活動を開始。最近では中四国地方の大会で審査員をつとめるほどだ。

「プラモデルにも専門分野があるんですよ! 船専門の私が飛行機を作ると、色がまだまだだなぁって言われるんです。形や色、プロの目はごまかせないんです」と奥深いプラモデルの世界について野々上さんは語る。

細かい手仕事が施されている戦艦「長門・1944」

作業部屋には、壁面にプラモデルキットの箱がギッシリ積み上げられている。中でも目を引いたのは、ずらりと並ぶ細かいパーツの箱。仕事では、専門雑誌社などから、発売前の模型キットの制作依頼を受けて制作に取り組む。中には、説明書がなく、写真だけを頼りに制作したり、キットが販売前で修正中のパーツを使用したりと困難がある中、忠実に再現。「流石プロ!」腕の見せ所だ。

仕事優先で、合間に自分の趣味でオリジナル作品も作る。仕事も趣味もプラモデル!大作になると3か月もの制作期間を要し、1日の作業時間は、その日により幅はあるが、長い時で6時間も没頭する。

ずらりと並ぶ、細かいパーツの入った箱

このコロナ禍で模型業界は、おうち時間を充実させようという巣ごもり需要の高まりを受けて活気だっており、プラモデルキットや雑誌等の購買数も増加、制作依頼も多いという。プラモデルの魅力について尋ねると、「やめられないんですよね。まだ、満足のいく物が作れていないんです。終わりがない」と野々上さんは語る。

プラモデルを通じた復興支援

2018年7月に起きた西日本豪雨。当時、岡山県倉敷市真備町にあった、プラモデルの聖地と呼ばれる模型店『エラヤ』も被災し、多くの商品が水没した。野々上さんは、サークル仲間と共にいち早く現場に駆け付け、片付けをし、被害の少なかったプラモデルを軽トラック3台分買い取り、近県の仲間に格安で販売。また、義援金を寄付する等、復興支援にも携わった。現在『エラヤ』は、矢掛町で移転再開し、今なお交流が続いている。

コロナ禍にも負けない!今後の取り組みは?

奈義町の展示会で人気だったユーモア溢れた作品

例年であれば「ルフトバッフェ」の定期展示会が5月に開催されているが、2020年は新型コロナウイルス流行の為中止に。2021年も開催は難しいようで「イベントをやりたいですねぇ」と肩を落とす。だがイベントはできなくとも、作品は作り続けている野々上さん。ぜひ、数多くの人の目にその精巧な作品が披露される日が、1日でも早く来ることを願う。

お気に入りの戦艦「長門」を手に笑顔の野々上さん

野々上さんは奈義町で幅広い世代を対象にした、プラモデル教室の開催も検討中だ。

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