広島県福山市で車椅子ユーザー視点のまちづくりに取り組む藤井佳奈さんと、カリフォルニアで車椅子ユーザー向けの情報発信に取り組む娘の藤井莉子さん。
一度は将来に絶望したこともあった二人だったが、いまは誰かの希望になりたいと活動に取り組んでいる。

親子で参加したサッカーイベント

莉子さんが4歳の時にシングルマザーとなった佳奈さん。もともと苦手意識のあった保険業界に転職し、がむしゃらに働いた。新人賞を取るなど、抜群の営業成績を残し、活躍している矢先の出来事だった。

―――莉子さん

母は仕事で帰りが遅く、一人で留守番することが多かったです。その日も会社の飲み会があるので22時くらいには帰ると聞いていました。でも、日付が変わっても帰ってきませんでした。すると、母の友人から自宅に電話があり、母が市民病院に運ばれて、危険な状態であると知りました。急いで病院へ行きましたが、集中治療室に入っていたので会うことはできませんでした。

―――佳奈さん

2014年10月3日のことでした。交通事故に遭ったんですが、正直前後の記憶はありません。でも、人は死ぬとき、最後まで耳は聞こえているって言いますよね。まったく動いたり、反応したりすることはできないけど、事故のがちゃがちゃっという音や、病院でかけられた「娘と一緒に生きるんだ」といった声、MRIの検査音が聞こえてきたことは覚えています。集中治療室から大部屋に移り、気づいたら天井が見えたという状況でした。

新人賞を取った頃の佳奈さん

2人が会えたのは、事故から2週間後のことだったという。莉子さんはその間、孤独に耐え学校に通った。対面して、はじめて涙があふれたという。佳奈さんは頸椎を損傷しており、当時は首が固定されていて、顔だけが動かせる状態だった。莉子さんはその姿をみて、これから自身がヤングケアラーとして介護していくことを瞬時に悟ったという。
佳奈さんは娘を抱きしめたい気持ちでいっぱいだったが、何もできなかった。

―――莉子さん

私は小学6年生でした。卒業式に母がなんとか外出許可をもらって車椅子で来てくれたのですが、短時間しか参加できませんでした。これまで当たり前だったことができない現実に、なんで私だけがこんな目に遭うのだろうかと、健常者家族がうらやましかったです。

―――佳奈さん

莉子の卒業式に出たいと思って先生に相談しました。すると、いろんな人たちの助けを得ながら車椅子でなら参加できると言われました。私はこの先の人生を思って絶望しました。こんなことなら死にたいと思いました。

絶望の中にあった二人だったが、そこから佳奈さんは心機一転厳しいリハビリに取り組む決断をする。そのためにはより高度な設備が整っている病院に転院する必要があり、二人は離ればなれになってしまう苦しい決断でもあった。

―――莉子さん

私は母と離れ、祖母の家で暮らすことになりました。祖母からは、障がいをもった親と一緒に暮らしていると、自由な時間がなかったり、学校でいじめられたりすると繰り返し言われ、私が母のお見舞いに行くことも許しませんでした。そうした中で、私は母との生活を諦めるようになりました。

―――佳奈さん

正直に言うと、リハビリは諦めていました。ですが、ある時、まったく動かなかった右足の親指がかすかに動いたんです。もしかしたらまた動けるようになって、莉子と一緒に暮らせるかもしれない、と思いました。リハビリは過酷でした。はじめは寝たきり状態で、起こされて車椅子に乗っても、すぐに低血圧になって苦しくなりました。こんなんじゃ一生座ることもできないかと思いました。でも、繰り返す中でだんだん慣れてきて、歩行訓練にもチャレンジするようになりました。

脊髄損傷トレーニングジムJ work outにて歩行トレーニングをする佳奈さん

そうした母の姿を見て、再び一緒に暮らしたいと思った莉子さんは佳奈さんとの生活をはじめた。リハビリの成果でできることはもちろん増えていたが、それでも高校生ながら風呂のサポートやお弁当の準備などをしていた。時には、なぜ自分がこんなことをしているんだろうという感情が爆発してしまうことも。そんな莉子さんの転機となったのが、交通遺児育英会の支援を受けてカリフォルニアに行ったことだった。

―――莉子さん

カリフォルニアは、車椅子の方にとってもとても生活しやすい環境で本当に驚きました。そして、この景色を母にも見せてあげたいと思ったんです。自分自身もこのまちづくりを学びたいと思いました。そこで、留学を決意しました。帰国後、必死で情報を集めて母にプレゼンをしました。

―――佳奈さん
莉子が留学したいと言った時、最初は驚きました。でも反対はしませんでした。私のせいで、夢を諦めるようなことがあってほしくなかったからです。そして私は覚悟を決めました。娘が安心して留学できるように、もっと自立しなければならない。そして、何かあってもすぐには会えないということを受け入れる強い気持ちを持たなければならない。莉子に背中を押され、事故から5年以上経過した人が再生医療をしたデータが当時まったくないと言われていましたが、挑戦することにしました。

カリフォルニアの友人たちと

高校卒業後、晴れてカリフォルニアの大学への進学した莉子さん。そして佳奈さんは、厳しいリハビリや、再生治療の結果、佳奈さんは当初まったく動かなかった右手で缶を開けて飲むことができるようになり、少しの時間なら杖無しで歩くこともできるようになった。当初、再び歩くことができる可能性は2%と言われていたという。この驚異的な回復は、再生医療に関する学会で発表されるほどのものだった。いま、二人はそれぞれの場所で、未来に向かって歩みはじめている。

―――莉子さん

大学での学びに加えて、Instagramで車椅子の方でも留学や旅行ができるんだよ、という情報発信をしています。いま4人の仲間と活動をしていて、将来的には新しいビジネスを起こしたいと思っています。車椅子の方が自由に外出することを後押しでいるよう、この場所は車椅子でも大丈夫とか、段差があっても店員さんが手伝ってくれるとか、そんな情報が載っている世界地図を作りたいです。また、母と暮らしていて感じた課題がたくさんあります。バリアフリー住宅専門の不動産会社はありませんでした。車椅子でもおしゃれにすごせるブランドもありませんでした。いろいろとやりたいことがあります。

Instagramで発信活動をする仲間たち

―――佳奈さん

私は瀬戸内海に浮かぶ生口島が故郷です。そこでは、障がいにかかわらず一緒に育ったという経験がありました。当たり前の存在だったので、ある時発達障害の友達が発作をおこしても、自然とサポートすることができていました。いま暮らしている福山でも、そんな環境をこどもたちに作ることができたら、その子たちが大人になると社会が大きく変わると思います。そんな地域を目指して、車椅子ユーザー視点で子どもたちが遊ぶ遊具について提案するなどまちづくりに関わっています。

福山Park Life LABでワークショップをする佳奈さん

また、グリーンバードという渋谷発で世界各地でゴミ拾いをしているボランティアグループがあるのですが、莉子が留学先のコスタメサでチームを立ち上げたんです。私も娘と一緒にゴミ拾いに参加した時に、活動を通して多様な人々とつながることができた経験がとても印象的でした。そこで、娘に触発されてグリーンバードの福山チームを設立しました。車椅子ユーザーがリーダーを務めるゴミ拾いチームというのは珍しいかもしれませんが、私の姿が誰かの一歩踏み出すきっかけになればという思いで活動しています。

グリーンバード福山チームキックオフ

一度は絶望したこともあったが、時には支え、時には刺激を与えあいながら、未来をよりよくするために動き始めた藤井佳奈さんと莉子さん。佳奈さんがリーダーを務める福山チームは、主に毎月第1土曜日と第3日曜に福山駅前で活動を行っている。ぜひたくさんの方が彼女たちのまちづくりの仲間となることを願っている。

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