大阪といえば、梅田や難波、心斎橋など高いビルが建ち並ぶ都会をイメージしがちですが、市内から車で1時間ほど行くと、都会とは打って変わり、田園風景が広がる里山があります。そこは大阪の最北端に位置する能勢町。市内より気温が5℃ほど低く、避暑地として知られています。ここ能勢で暮らす伊藤雄大さんは、ライター、植木屋、種苗店、農業塾など、複数の仕事を組み合わせて稼ぐ兼業農家です。

グリーンカレーなどの材料になる、バイマックルー(コブミカンの葉)。

伊藤さんが能勢町で暮らしはじめたのは2016年。現在、農家として栽培しているのは一般的な日本の野菜、花などをメインに、パクチー、ガパオ、パッカナー、タイナスなど9品目ほどのアジア野菜です。農業の年収は約150万円。それにほかの仕事を複数組み合わせることで生計を立てています。

趣味でアフリカの植物などたくさんの園芸植物も育てています。

大学卒業後に上京、農業系出版社に就職

京都の丹後半島で育った伊藤さん。とくに農業に興味があったわけでもありませんが、たまたま受かった農業系出版社に就職しました。1年目は営業職として農家に雑誌購読の飛び込み営業。その後は編集部に移り、北海道や東北の農村を取材して回る忙しい日々を送っていました。

移住に大きく影響した出来事は東日本大震災。震災直後のコンビニで空になった棚に紅生姜だけが残っているのを見て「こういう状況でも紅生姜だけは残るのか」と唖然としました。また、原発の影響で東日本の農家が心ない言葉に傷つけられることに消費者の身勝手さを感じ、苛立ちを覚えるようになっていったと言います。

タフな老人になりたい

そんな時に観た映画「先祖になる」が伊藤さんの人生を大きく変えました。東日本大震災の津波で自宅を流され、息子も失った佐藤直志さん(被災当時77歳)に迫るドキュメンタリーです。

「震災から数か月後には田んぼをはじめたり、1年後には被災した自宅をもとの場所に建て直すために木材を自分で伐採したりと、たくましく生きる佐藤さんの姿に心を打たれました。僕が出会った、震災からまもなく農業を再開した農家たちの姿と重なり、自分でも驚くくらい泣いてしまったんです」

4回ほど観て、ついには取材を口実に陸前高田市気仙町で暮らす佐藤さんに会いにいきました。瓦礫の山になった集落の高台に一際目立つ佐藤さんの新居を見て言葉を失いました。「いつか、自分も瓦礫の山でも生きていけるくらいタフな老人になりたい」。人生の指針となるような出会いでした。

退職して大阪府能勢町に移住

植木屋に勤めていた頃の伊藤さん。(伊藤さんより提供)

「震災の時に農家が復帰できたのは、知恵や工夫を持つ粒ぞろいの個人が集まったコミュニティの結束力があり、地域に根ざして生活していたからなんだろうと思ったんです」

結婚を機に仕事を辞め、妻の親戚がいる能勢に移住した伊藤さん。ゼロからやり直すつもりだったので仕事はなんでもよく、人に紹介してもらった植木屋で働きはじめることに。

植木屋の仕事は庭木の剪定ぐらいだろうと思っていたそうですが、道路の草刈りや石垣積み、ブロック積み、農業用水路の補修など実際は想像以上にハードでした。もともとインドアタイプだった伊藤さんにはなかなかの重労働でしたが、田舎で必要な技術を学ぶことができ、楽しくなっていきました。

「植木屋の親方が植物に詳しかったことも相まって、どんどんいろんな植物を育てるのが面白くなっていったんです」

移住当初に何気ない気持ちではじめた家庭菜園は、次第に夫婦では食べきれないほどに野菜が育ち、自宅近くの直売所に登録して販売するように。3アール(300㎡)ほどの小さな畑でも、畑をフル活用し、できたものを売り切れば、月3万円程度の売り上げになりました。

創意工夫が楽しい直売所の魅力

取材時はピーマン・ナス・万願寺唐辛子などを栽培していました。

直売所に出荷しているうちに、今度は直売所で売れる商品づくりが面白くなっていきました。例えば、旬とずらして野菜を出荷したり、白菜はSSサイズぐらいの大きさに育てるなどの工夫をすること。野菜は出荷の時期をずらすとライバルが減ります。巨大な白菜は保管するのに場所が取られるけれど、小さければ冷蔵庫のポケットにすぽっと入るという家庭の声があるのです。農業雑誌の編集部にいた頃に知った知識を活かすことができました。

「教科書通りに育てると、全然儲かりません。能勢の地域性を知りながら、これが売れるんじゃないか、あれが売れるんじゃないかと工夫するのが楽しくて、僕はずっと直売所に出荷しているんです」

植物を育てることが楽しいあまりに、植木屋を辞めて農業メインで兼業農家になることを決めました。妻の実家にある遊休水田を畑に戻し、合計30アールに拡大。週3、4日は農業の縛りをもうけ、残りの時間でライターなどの仕事をしています。冬は農業を休み、植木屋で剪定の季節労働。共働きの妻との生活は今のところ、派手な暮らしをしなければ問題なくまわっていると言います。

日本で働くアジア人を楽しませたい

さまざまな種類のタイナス。(伊藤さんより提供)

冒頭で紹介したように、伊藤さんはアジア野菜を栽培していますが、そのきっかけは妻の友人であるタイ料理店のシェフからアジア野菜のタネを渡されたこと。試しに栽培してみると、手渡されたすべてのタネを、気温が低い能勢でも育てることができたのです。それをそのシェフやタイ人の客に食べてもらうと「これ、これ!」と喜んでくれました。

「日本で安い賃金で働かされているアジア人がいることがすごく嫌なんです。せめて馴染み深い野菜を食べて喜んでほしい。タイ人のお客さんと話していると、空芯菜がどこに行ってもない、高級スーパーにしかないと言うんですよ」

その後、人づてやSNSを見た飲食店から注文が入り、7店ほどに配達をはじめることに。アジア野菜にもハマっていった伊藤さんは、ついにはタネを仕入れにタイへと足を運んだのです。家庭菜園を主軸にアジア野菜を身近なものにしていけたらと、WEBショップでタネの販売もはじめました。

兼業農家を育てる農業塾を立ち上げる

里山枝塾の実習のようす。(伊藤さんより提供)

目の前に起こる出来事を楽しみながら、真摯に向き合っていくうちに、どんどん仕事が広がっていく伊藤さん。2020年からは兼業農家を育てることを目的に「里山技塾」をはじめました。

能勢町には特産のひとつに「銀寄(ぎんよせ)」という栗があります。しかし、少子高齢化や担い手不足で、荒れ地となった栗園が増えていました。そこで、栗栽培の担い手を育てるべく、塾を立ち上げたのです。現役の栗農家が講師となって月1回、10か月に渡り栗園で実習していきます。

募集から1か月ほどで応募は殺到し、参加者は20名ほどに。集まったのは移住者や女性が多く、飲食店を営業している人もいました。本気の人に来てほしかったことから平日にわざと開催していましたが、なかには有給休暇を取ってまで参加するサラリーマンの姿もあったのだとか。栗の専業農家として就農したい人を探すのは難しいけれど、副業として栗栽培をしたい人たちは多いようです。

自分のスタイルで農業を取り入れればいい

枝豆として出荷する丹波黒を植える伊藤さん。

慣習や思想に流されず、目の前のことに向き合い、行動しつづける伊藤さん。農業で大切にしていることは「技術を自主的に学ぶ面白さ」と言います。

最後に、これからの農業のあり方についてどう思うか聞いてみました。

「専業にこだわりすぎず、兼業でも、家庭菜園でも、みんなが少しずつでも農業を取り入れればいいんじゃないかと思います。タネをまけば、基本的には芽を出し育つ。昔はみんなが普通に農業をしていたぐらいで、もっと身近なことのはずです。例えば料理でいうと、プロの料理人がいれば、レンジでチンで済ませたい人もいる。採算を度外視していい素材を集めて作りたい人、あるものでなんとかしたい人、いろんな考え方がありますよね。農業もそれでいいんじゃないかと思うんです」

伊藤さんが過去に書いた記事に「『農業は儲からない』は呪いの言葉。儲かるか儲からないかは、やりたい生活と照らし合わせながら自分自身で決めるべき」とありました。挑戦しようとしている人の意気込みを削がない、追い風となる言葉が印象的です。地に足をつけて生きるとはどういうことなのか、考え直してみたくなりました。

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