「自殺未遂をしたことによって、身体的に苦しい思いをしたり本物の死の予感を感じたりし、死への甘い幻想は跡形もなく消えてなくなりました。体が生きたがる以上は、生きていかねばならないと感じています」
詩人・エッセイストなどとして活動する豆塚エリさんは、16歳のときに自殺未遂を起こして頸髄を損傷し、車いすユーザーに。後天的な障害を背負ったことを機に、自分の命への考え方が変わった。

自殺未遂をして車いすユーザーに

豆塚さん

幼少期から両親の不仲や虐待、ネグレクトなど親子関係の悩みを抱えており、学校でも人間関係がうまくいかなかったという豆塚さん。小学校高学年の頃から、「消えてしまいたい」「死んでしまいたい」と思うようになり、中学生になると、自傷行為をし始めた。

両親は、豆塚さんが中学卒業と同時に離婚。母子2人での生活となったため、母を支えようと県内の進学校に入るも、高校2年生の冬、成績の伸び悩みや生活苦に耐え切れなくなり、自殺未遂を起こした。

それにより、頸髄を損傷。両手指と胸から下の感覚、運動機能が麻痺した。さらに、嚥下機能の低下によって肺炎となり、呼吸困難が引き起こされたため、一時的に気管切開を行うことに。

そうした状態になった時、心に芽生えたのは「もう頑張らなくていいんだ」という不思議な安堵感だった。

「呼吸困難によって睡眠や食事が難しくなり、身体を動かすことは全くできなかったため、とにかく今すぐにでも楽になりたいとだけ思っていました。周りは反応に困っていたようでしたね」

急性期病院に3か月入院した豆塚さんはその後、回復期の病院と訓練施設で約2年間リハビリを行うことに。機能の回復は見込めなかったため、残存機能を生かし、日常生活動作(ADL)での自立を目指したリハビリだった。

そうした中で車いすを初めて使用することとなり、視点の低さに驚く。

「体の感覚があるところが車いすに触れないので、まるで水の中に浮いているような心もとない感覚で、なかなか慣れられませんでした。私は起立性低血圧がひどかったので、長時間座れるようになるまで、とても時間がかかりました」

「生きたい」という体の本音を認められる人生を

後天性の障害を抱えると、絶望してしまうことも多いもの。もちろん、豆塚さんも苦しさを感じたが、持病は“生き直し”をするきっかけにもなった。

障害者になっても生きていてよかったと思えた

「もちろん嫌な目に合うこともありましたが、私は障害者となって初めて、福祉やケアというものに触れたように感じました。尊厳を持ったひとりの人間として、また守られるべき未成年として扱われたことによって、長い時間をかけて、少しずつ自己肯定感を回復できたように思います」

まるで人として生まれ直し、いちから育て直されているみたい……。周囲の善意に接する機会が圧倒的に増えたことで、豆塚さんはそう思うようになり、向けられた善意を素直に受け取るようになった。

現在は月に1回、薬や自己導尿のための物品をもらいに泌尿器科へ通い、足にある褥瘡の経過観察を皮膚科でしてもらっているそう。慢性的な腰痛と尖足の治療のため訪問マッサージも利用し、障害と付き合っている。

「自立してからずっとそうなのですが、とりあえずは自分の体に合った安定した収入を得られる生活の基盤を作っていくのが当面の目標です」

大分県美術館で開催されたユニバーサルファッションショーにも参加

そう語る豆塚さんはモデルやコメンテーターや詩人、コラムニストなど多岐に渡り、活躍中。今年の9月16日には、エッセイ『しにたい気持ちが消えるまで』を発刊予定だ。

「本作は、飛び降りるまでの経緯や障害者となってから自立するまでを書いた自伝的エッセイ。当時、書いていた詩も織り交ぜています」

重度障害者になってから死にたくなくなるまでの経緯が綴られている

なお、豆塚さんは自身が生と死の間で苦しんできたからこそ、かつての自分と似たような思いを抱えている人に、こんなメッセージを送っている。

「死んだら楽になれると思い、本気で死のうとする人を止める術はないと思います。その人の苦しみや痛みに対して、言葉や他人はまったく力を持たないから。けれども、体はきっと生きたがるし、死を怖がる。それをそのまま味わい、認められるといいなと思います」

「生きたい」という体の本音に気づいた、豆塚さん。彼女がこれから、どう命を紡ぎ、“人生”を発信していくのか注目したい。

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