52歳で会社員を引退した男性 →その38年後、まさかの姿に「運命的な出会い」「人生が動き出した」 フィリピンの島を買った崎山克彦さんの生き方に迫る

52歳で会社員を引退した男性 →その38年後、まさかの姿に「運命的な出会い」「人生が動き出した」 フィリピンの島を買った崎山克彦さんの生き方に迫る
鎌倉での崎山さん(提供写真)

フィリピン・セブ島の沖合に、コバルトブルー、ネイビーブルー、カリビアンブルー、重なり合う青に包まれ、小さな楽園が浮かんでいる。ここがカオハガン島だ。真っ白で細かな砂浜が島を囲み、海抜4mほどの土地には、こんもりとした緑濃い木々が生い茂る。子どものころに読んだ絵本から飛び出したかのような、美しい島だ。

この島との運命的な出会いを果たしたのが、崎山克彦さん。今から38年前の1987年、52歳の彼はこの楽園を手に入れた。だが、それは偶然だった。

カオハガン島で過ごす崎山さん(提供写真)
カオハガン島の全景
カオハガン島の全景

当時、崎山さんは22年間勤めた会社を退職し、仲間とともにセブ島沖へダイビング旅行に訪れていた。午前中のダイビングを終え、船の上で現地インストラクターと休んでいたときのことだった。

「この海で一番美しい島が、今、売りに出ているんですよ」
そう言ってインストラクターが指さした先に、カオハガン島があった。

その瞬間「心が高鳴った」と語る崎山さん。視線の先には、青空の下に浮かぶ美しい島。気づけば口から言葉が飛び出していた。

「いくらですか?」と聞くと「200万ペソ(当時1000万円)です」と返される。

「……ぜひ買いたいです」
崎山さんは、思わず言ってしまったのだ。

しかし迷いはなかった。長年勤めた会社の退職金もあった。そして、崎山さんの心の奥底に、ビジネス中心の人生から解放され、新たな生き方を模索したいという思いが巡っていた。

だが、島を買うことはそう簡単ではなかった。カオハガン島の土地の権利は複雑で、個人や国などの所有者が入り乱れ、登記も曖昧な状態だった。それでも崎山さんは諦めなかった。フィリピン人の国際弁護士の助けを借りながら手続きを進め、1987年、正式にカオハガン島を手に入れたのだった。

衝動にも近い形で、フィリピンの島を買った崎山さん。89歳になった彼は、カオハガン島とともに生きた半生を振り返りながら、自らの人生の最終章をどのように迎えようとしているのか…静かに、しかし熱く語ってくれた。

波の音を聞きながらハンモックに揺られる
波の音を聞きながらハンモックに揺られる

激動の時代からグローバルなキャリアへ

1935年、崎山克彦さんは福岡県に生まれた。10歳のとき、空襲を逃れて秋田県へ疎開し、そこで終戦を迎えた。

「戦後、日本にはほとんど何もなかったんです。そんなとき、進駐軍とともにやってきたアメリカの物資や文化は、キラキラと輝いて見えて」

当時の日本と比較して、アメリカの何もかもが新鮮に見えた。少年時代の崎山さんの心に深く刺激を与え、アメリカという国へ強い憧れを抱いた。

1959年、慶應義塾大学を卒業し、講談社に就職。最初に配属されたのは、婦人ファッション誌の編集部だった。モデルや芸能人と仕事をする華やかな世界を楽しんだが、数年が経つと「自分にはもっと別の道があるのではないか」と考えるようになり、思い切って退職する。

そして1963年、28歳のとき、アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校の大学院に留学し、ジャーナリズムを学ぶことになった。ところが渡米のわずか3日前、ケネディ大統領が暗殺され、アメリカは混乱していた。さらにベトナム戦争が泥沼化し、連日のように学生たちが反戦デモに繰り出す日々。

学校の授業はほとんど行われず、崎山さんは皿洗いや新聞記者、豪邸での住み込みなど多様な仕事をしているなかで、「アメリカは自分を受け入れてくれた」と感じた。アメリカ社会で働くことは、大学院で学ぶ以上に、アメリカを身近に感じることができた。

大学院を卒業してからも、アメリカで働きたいという思いがあり、現地で仕事を探していた。その頃、かつて勤務していた講談社の社長が「日本の文化を世界に紹介したい」と考え「講談社インターナショナル」を立ちあげた。日本の文学や文化を英訳し、アメリカで出版するこのプロジェクトに深く共感した崎山さんは、再び講談社に入社することになった。

それから20年以上にわたり、アメリカを拠点に書店を巡って販路拡大に努めた。その間、川端康成や三島由紀夫といった文豪たちの著書翻訳・出版にも関わった。また、ヨーロッパやアジアを飛び回っては、海外作家の原稿依頼や版権交渉に奔走するなど、充実したキャリアを築いていった。

その日々のさなか、突然、崎山さんはその道から身をひくことを決めた。

「特に不満があったわけではありません。でも、52歳のときに退職を決めました。まだ体力があるうちに、なにか新しいことに挑戦したかったんです」

「講談社インターナショナル」を退職後は、趣味だった旅行やダイビングを再開。そして、セブ島を訪れたとき、冒頭で紹介した人生を大きく動かす出会いが待っていた。ここから「島を買う」という、まさかの展開が始まったのだ。

いよいよ島に移住も、もともと住む島民はどうするのか?

講談社インターナショナルを退職した崎山さんだったが、その手腕からアメリカの出版社「マグロウヒル」の日本支社長を依頼されて引き受けることになった。その間は、月に一度カオハガン島を訪問した。崎山さんは、この島の何に魅了されたのだろうか。

「風がスーッと島を吹き抜けて、ココヤシの木を揺らしてね。海鳥の鳴き声を聞きながら、穏やかな波打ち際に立つと、気分が晴れるんです。カオハガンの自然には本当に参ってしまいましたよ」

崎山さん(右)、妻・順子さん(中央)
崎山さん(右)、妻・順子さん(中央)(提供写真)

最大の理由は、自然の豊かさだった。周囲2kmの小さな島だが、空、海、木々、鳥が崎山さんの五感を心地よく刺激してくれた。

当初はセブ島に宿泊し、10km沖のカオハガン島へボートで通っていた。次第に島に滞在する時間が増え、1991年にはマグロウヒルも退社。日本とカオハガン島の二拠点生活が始まった。
「カオハガンハウス」という母家を建設したのもこのときだ。

カオハガン島の母屋
カオハガン島の母屋

自然に加えて、もう一つの魅力は島民だという。

「島に住み始めた当初、数人の知り合いから『崎山さんは島の持ち主なんだから、前から住んでいる住民に出て行ってもらいなよ』と言われたんですよ」

島を購入したときには330人ほどの島民がいた。何世代も前から住んでいる人たちだったが、自分たちが購入した土地に住んでいるわけではなかった。しかし、彼らの暮らしぶりを見ていると追い出す気にはなれなかった崎山さん。

「島民たちは、毎日家族が食べる分だけの小魚や貝をとっては、さばいて料理します。また、16歳になる頃には自分たちの家を作ったり、船の修理ができるようになるんです。島で生きていくために必要な生活の術を、全部身に着けてしまうんですよね。これは本当にすごいことだと感銘を受けて、彼らと一緒に生活する道を選択したんです」

崎山さんと島民
崎山さんと島民(提供写真)

カオハガン島の周囲は珊瑚礁に囲まれている。これが自然の防波堤になって、大きな波の心配がない。島民は、早朝や夕方に遠浅の海に入り、バケツに食べる分だけの魚介を採取する。自分たちが生きるための方法を熟知し、淡々と日常を続ける彼らのなかに、崎山さんは生きるヒントを見たような気がした。そして崎山さんは、それから20年、30年を彼らと共に生活することになるのだ。

「みんな自然の中で頂いたものに感謝して生きているんですよね。本当に豊かな環境です」

トイレのない島

とはいえ、カオハガン島での暮らしは、それまで過ごしてきた日本やアメリカとはまったく異なっていた。特にインフラ面では雲泥の差がある環境で、崎山さんはどのように適応していったのだろうか。

「カオハガン島では、そもそもトイレというものがなかったんですよ。でも、動物のフンのように、道端に落ちているわけでもない。実は、みんな海で用を足していたんです。波打ち際の岩辺や、海の中でね。僕も真似してましたよ。少し沖に出てパンツを脱ぎ、ふんばるとスカッと出る(笑)ただ、潮の流れを間違えると、自分のほうに戻ってくるから注意です」

カオハガン島の海と崎山さん
カオハガン島の海と崎山さん(提供写真)

移住当初「海がトイレ」は当たり前だった。さらに崎山さんが驚いたのは、排泄中に人に見られることを、島民たちはまったく気にしないということだった。彼らは、仲間同士で連れ立って海へ行き、用を足すのが日常。崎山さんが持っていた「衛生的ではない」「恥ずかしい」といった感覚は、そもそも存在しなかった。

その後、観光客など島民以外の人も使えるように、専門家に依頼してトイレを作ったという。地面を掘り、排泄物が浄化できるシステムを作り、その上に小屋を建てた。一つの小屋に4つのトイレ、それを島の4ヶ所に設置した。今でも海で用を足す島民もいるものの、トイレはそれ以降受け入れられたという。

伝統医療のマナナンバル

「カオハガンは空気も澄み切っていて、病気になる人もいないんじゃないかと思うほどなんですが、やっぱりそれなりに病気になるんですよね」

そう語る崎山さんは、移住後「医療」という課題にどう向き合ったのか。

もともとカオハガン島には病院がなく、島民があてにしていたのは「マナナンバル」。フィリピンの多くの島々にいる、地域に根ざした伝統医療を行う人だ。

崎山さんの書斎の前で
崎山さんの書斎の前で(提供写真)

「私も二度、マナナンバルに診てもらったことがあります。まずお祈りをして、そこから患部にマッサージのような施術をし、現地の草木から作った薬を塗ってもらうんです。そうしたら、本当に治ってしまったんですよ」

マナナンバルだけで回復しない場合、船でセブ島など近くの島にある病院に行く。ここで問題になるのが、ほとんどの島民に現金収入がないことだった。

現在でも、島民の現金収入は、世界の最貧国の平均(2024年GDPブルンジ320.636ドル「GLOBAL NOTE」)からさらに低い三分の一ほど。かつてはさらに少なく、病院に支払う経済的余裕はなかった。そのため、島民の緊急の怪我や病気の場合は崎山さんの貯金から金銭的な援助をしていた。

この打開策として、島を訪れる人からもらう「入島料」の一部を、緊急の医療費に当て始めた。入島料は島に観光客が増えたため、環境維持のため徴収していた。2025年は大人200ペソ(520円)、子ども100ペソだ。この崎山さんの取り組みで、島民の死亡率を少しずつ減少させてきた。過去には生後3ヶ月まで育つ子どもの割合が極端に低く、多くの家族が幼い命を見送ってきたという状況もあったが、島の人々が命を守るための資金を得られるようになった。

絵を描く崎山さん
絵を描く崎山さん(提供写真)

小学校3年生から海を歩いて隣の島へ通学

かつてカオハガン島には、小学校2年生までしか授業が行われていなかった。島にある小さな校舎では、初歩的な読み書きや算数などを教えるのみで、3年生以上の教育は提供されていなかったのだ。

そのため、3年生から先の勉強を続けたい子どもたちは、隣のパンガナン島にある学校まで“歩いて”通わなければならなかった。歩くとはいえ、その通学路は「海の中」だ。引き潮の時間を見計らい、子どもたちは制服の裾をまくり上げたり、腰まで水に浸かりながら1時間近くかけて歩いたという。この環境ゆえ、途中で通学をあきらめる子どもも多く、島のほとんどの子どもたちは2年生までで学びを終えてしまっていた。

潮が引いた海と崎山さん
潮が引いた海と崎山さん(提供写真)

「長い目で見たときに、島の未来は子どもたちがどれだけ学べるかにかかっていると思ったんです」と崎山さんは語る。

読み書きができるだけでは不十分だ。島民が自分の頭で考え、正しい判断ができるようになること。それこそが、島の持続的な発展には不可欠だと考えた崎山さんは、教育環境の整備を決意する。そして1994年、ついにカオハガン島に小学6年生まで学べる学校をつくった。子どもたちは海を渡らずとも、島の中でしっかりとした基礎教育を受けられるようになった。

インドの哲学「第4期」に沿って生きる

崎山さんには、生きる指針となっている指標がある。それは、インドで聞いた「人生の4つの期」に関する考え方だ。ヒンドゥー教社会において理想とされる生き方のモデルで、カルカッタを仕事で毎年2回、25年間訪れていたときに出会い、深く心に残ったという。

その4つの期とは、「学生(がくしょう)期」、「家住(かじゅう)期」、「林住(りんじゅう)期」、「遊行(ゆぎょう)期」である。学生期は、学びに集中する時期。家住期は働いて収入を得て、家族を持ち、社会に貢献する時期。林住期は家族や世俗と離れて自分の内面と向き合い、精神的な成熟を目指す時期。遊行期は人生の終焉に向けて準備をし、大切な人と過ごす場所を見つける時期だ。

書斎の中の崎山さん
書斎の中の崎山さん(提供写真)

「日本でいう会社の定年退職は、ちょうど家住期の終わりにあたります。僕は52歳で会社を引退したので、ここで家住期を終えて、そこから林住期に入ったと考えています。約30年カオハガン島の自然と共に暮らしてきて、いい人生を送ってきたと思います。そして85歳になったときに、この島の運営の代替わりを考えました。次の遊行期に入るためです」

「遊行期」に入ることを決意したのは、82歳のとき。人生の終盤を迎える準備として、これまで自らが担ってきたカオハガン島の運営を、信頼できる次の世代に託すことにした。

長年にわたって、カオハガン島のインフラ整備、医療、教育などに尽力を尽くしてきた崎山さん。その想いを託す相手として選んだのは、島の購入当初から関わってきたセブ島の弁護士、そして島の男性と結婚、移住してきた2人の日本人女性だった。

3人とも「自然を尊び、島民と共生する暮らし」という崎山さんの理念に深く共感していた。崎山さんは、この3人なら、これからのカオハガン島を幸せな未来へ導いてくれると確信した。

こうして、カオハガン島の将来を見据えた新たなビジョンとともに、島の運営から静かに降りた。

自然の中で命を全うする…その場所を探して

「遊行期に入って『あとは死ぬだけ』じゃなくてね。まだ何かしなきゃいけないという気持ちはあって。死ぬまでの数年間をどう生きるか……って、でも何していいかわからないし、『何もしない』っていうのは案外難しいんですよね(笑)」

このように語る崎山さんが、人生の最終章をどう過ごすかを考え始めたころ、新型コロナウイルスの感染が拡大した。

鎌倉での崎山さん
鎌倉での崎山さん(提供写真)

「カオハガン島にいれば、身体も心も、死に向かって、ゆったりとすごせる気がしたんです。でもちょうど日本に一時帰国していたタイミングでコロナ禍になって、そのまま島に戻れなくなってしまって。結局鎌倉で2年過ごすことになりました。ただ、鎌倉も海が近くて自然が身近に感じられる場所。ここで最期を迎えても『自然の成り行き』でいいのかな、とも思いました。そのあと2022年にカオハガン島へ戻れることになって。また風を感じて、波の音を聞くとカオハガン島に戻って来たいと思いましたよ」

鎌倉の浜辺を毎日散歩する
鎌倉の浜辺を毎日散歩する(提供写真)

それからは、カオハガン島と鎌倉を年に数度行き来する生活が始まった。2025年2月には再び島を訪れ、いつものように妻・順子さんと一緒に過ごした。背筋がピンと伸び、肌のつやも良い崎山さんは、89歳とは思えない元気な様子だった。島の住民に髪を切ってもらったり、セブに出かけたり。友人たちとのんびり過ごす様子が、写真とともに筆者の元へ送られてきた。

島民に散髪してもらう
島民に散髪してもらう(提供写真)

少しして日本に戻った頃だと思い、順子さんに連絡をとると、思いがけない返事があった。

「セブで緊急入院してしまいまして…次回6月に予定していた彼の誕生日会は、もう実現できないかもしれないの」

崎山さんは体調を崩し、セブの病院へ緊急入院していたのだ。約2週間後、退院はしたが、3ヶ月後にカオハガン島で開催を予定していた90歳の誕生日会の開催が危ぶまれた。

「風と波、そして鳥の声で目覚めて、海が目の前に広がるオフィスで、最後の本を書いて…3年から5年のうちに静かに人生を終えたい」

かつてのインタビューで語っていたその言葉が、筆者の脳裏をよぎった。幸いにも1ヶ月ほどで体調は回復。
「奇跡だと思った」と語る順子さん。鎌倉で静かに過ごしていることを知り、胸をなでおろした。

そして2025年5月下旬、90歳の誕生日を迎えるため、崎山さん、順子さんは再びカオハガン島へと向かった。この南の島の主、崎山さんの誕生日を祝うために、島民はもちろん日本からも友人、知人が駆けつけた。そして、島の広場で盛大なパーティが開かれた。

カオハガン島で行われた崎山さん90歳の誕生日パーティー
カオハガン島で行われた崎山さん90歳の誕生日パーティー(提供写真)

カオハガン島にきて38年、島の自然や生活を書いて20万部を超えた崎山さんの著書「何もなくて豊かな島」の最後にこんな一節がある。

「決して1人では生きていけない。これからも許されるならば、カオハガンの素晴らしい友人たちと大きな自然に囲まれて、シンプルで豊かな暮らしをしていきたいと思っている」

カオハガン島の夕日
カオハガン島の夕日

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