「夢を言葉にし続けて、努力すればきっと叶うよ」。全国の10代、20代の若者に向けて語りかける言葉には、思いやりと優しさが溢れています。ジストニアという難病を抱えながらも、アメリカ・ニューヨークでピアニストとして一線を走り続けてきた西川悟平さん。東京パラリンピック閉会式のラストを飾った「この素晴らしき世界」のピアノ演奏は、聴く人の心を揺さぶり大きな感動を呼びました。その強さや、優しさはどこから生まれたのか。西川さんにインタビューしました。

バイエルを弾きながら頭は「ショパン」

20年に及ぶニューヨーク暮らしやパラリンピックのグランドフィナーレでの演奏といった輝かしい経歴とは裏腹に、西川さんのこれまでの人生には大きな困難が何度も押し寄せ、もがきながら乗り越えてきました。

大阪府堺市で過ごした幼少期(提供:西川さん)

大阪府堺市生まれの西川さん。「小学生の頃は、空想癖のある“のび太”のような子どもでした。音楽の授業も上の空で廊下に立たされるようなタイプ。映画に夢中で、『いつか、マイケル・J・フォックスと友達になるんや』が口癖」。友達や教師に恵まれ、好奇心旺盛な幼少期を過ごしたといいます。今でも変わらないのは「人が好きなこと」。
ピアノを習い始めたのは一般的には遅い15歳でした。「憧れだった吹奏楽部の先生が音大卒と知り、それならば自分も音大に行こうとピアノを習い始めました」と西川さんは話します。

人より遅いスタートに「恥ずかしい気持ちはまったくなく、ただやりたいという純粋な気持ちだけ」だったという中高時代(提供:西川さん)

バイエルを練習しながら、頭の中ではショパンが流れていたそう。その頃からカーネギーホールで演奏するイメージもあったといいます。「成功のイメージ」を強く持つことの大切さがわかるエピソードです。
周囲から不可能と言われる中、猛特訓の末、西川さんは大阪音楽大学短期大学部に入学を果たします。その後、四年制編入試験に続けて失敗し、デパートの和菓子店に就職します。
しかし、そこに転機が訪れます。
世界的に活躍するデュオピアニストのデイヴィッド・ブラッドショー氏とコズモ・ブオーノ氏の前座で演奏するという話が舞い込みました。「緊張しながらも魂を込めた演奏は『ユニークでドラマティック』と高く評価され、ニューヨークへとスカウトされました」。所持金6万円で渡米。24歳のときでした。

デパートの和菓子店店員から一転。1999年5月、ニューヨークへ行った頃(提供:西川さん)

 ジストニア発症 絶望からの希望の光

「テクニックのある上手いピアニストはごまんといます。師匠のブラッドショー先生から言われ続けたのは『上手に弾こうとするな、自分にしかできない表現を見つけなさい。それがニューヨークで生き残れる道だ』という言葉」。3分の曲を5時間かけて、一音一音、心をこめて響かせる練習法を叩き込みました。
そして、ニューヨークで華々しくデビュー。夢のカーネギーホールでの演奏も行うなど「アメリカンドリーム」を掴み、順調にピアニストとしての階段を上り始めた矢先、西川さんの指に異変が起こります。
日常生活に支障はないけれど、ピアノを弾くときだけ指が内側に曲がってしまう症状に悩まされ、一時は両手の演奏機能を全て失いました。医師5人の診断は神経系の難病・ジストニア。「一生、プロとして弾くことはできない」と宣告されました。
「やっと確立したアイデンティティを失うという恐怖」から自死を考えるほどの絶望。

西川さんは、わずかな望みにかけてニューヨークに残り、清掃員や介護職、アパート管理人として働きながら、経済苦の中、治療とリハビリ、そしてピアノを弾き続けました。
復活のきっかけは、幼稚園の子どもたちの前で演奏したとき。

「キラキラ星を弾いたんですね。動く指だけを懸命に使って、指使いもメチャメチャに。そしたら『キャー』と大興奮の子どもたち。曲がった指なんか誰も見ていなくて、音だけを純粋に聞いて楽しんでくれたんです。良い意味での衝撃でした」

応援してくれる人の縁で幼稚園のアシスタントの職を得た頃。子どもたちから、音を感じ楽しむことの大切さを気づかされました(提供:西川さん)

「指使いや伝統的な演奏法なんてどうでもいい、弾ける指だけで弾こう」
そう決意した西川さんが編み出したのは、痙攣する指を補うように左右の手を互いにクロスさせるアクロバティックな弾き方。一音一音を確かめるように練習を重ねて、しだいに動く指が増えて、右手5本と左手2本の7本指で演奏できるまでに。納得できるまで7年かけて1曲を完成。「自分だけの表現」を確立していきました。

うつ病を苦に自死したアメリカ人青年・リアム・ピッカーさんが作曲した「Winter」を、彼の故郷・セントルイスで演奏した西川さん(提供:西川さん)

「それから、世界中からオファーを受けるようになりました。そして、東京オリンピックの開催が決まってから、いろいろな場所で『演奏したい』と言い続けているうちにその願いが叶いました」と西川さんは話します。

コンプレックスを”強み”に変えて

現在は、東京・銀座を拠点にコンサートを開催しながら、日本全国でも演奏活動を行っています。すでに38都道府県を回り、3月20日には岡山県早島町での開催を控えています。「岡山は思い入れのある場所の一つ。ニューヨークでお世話になった人の故郷・玉野からのオファーを受けて、これまでにも何度か演奏しています」

「僕はコンプレックスが多いです。ピアノを始めた時期は遅いし、これまでの人生、一回一回失敗しています。でも、コンプレックスを持つことは決して悪いことではないと思っています。克服するために努力することができるし、克服したときには、それが何よりの強みになります」

「最悪な出来事も、考え方や行動の違いで、最高の出来事になる」。西川さんのピアノからは、苦しみや困難を乗り越えた人の強さや優しさが滲み、私たちに静かに語りかけてきます。

若者に向けて、夢を持ち続けることの大切さを伝えています。西川さんは、パーキンソン病と闘うマイケル・J・フォックスさんらとともに患者支援のチャリティーなども行っています(提供:西川さん)

今、西川さんが情熱を傾けているのは、日本の10代、20代の若者らに向けた演奏活動です。そこでは、関西人ならではの落ちのある軽妙なトークで、自らの失敗や成功を包み隠さず語ります。
壮絶な日々の裏側で、人との出会いに恵まれ、支えられてきた西川さん。これからはそれを恩返ししていきたいと話します。「今の夢は、いつか子どもたちが夢を叶えて、再会したとき、“夢が叶ったよ”と話してくれること」と満面の笑顔で話します。

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