二つの祖国を生きる ―多文化共生社会の架け橋となることを目指す日系ブラジル人の軌跡―

二つの祖国を生きる ―多文化共生社会の架け橋となることを目指す日系ブラジル人の軌跡―
ブラジル、リオデジャネイロにて

少子高齢化や都市部への人口流出、働き方の多様化などに起因し国内の様々な業種において慢性的な労働者不足が深刻化している日本社会において、これを解消する一つのカギとして企業などが頼りにしているのが技能実習生などの外国人材だ。

例えば島根県内で働く外国人材も他の多くの地方同様年々増加しており、2024年1月では、島根県には約70の国と地域から約9,500人を超える外国人住民が暮らしている。それに応じるように日常生活の中では、外国人住民に対する必要な情報の多言語化や相談体制の整備をはじめ、教育や子育て、医療や福祉、防災など生活全般や定住にかかる支援など、「多文化共生」の推進に向けた取り組みが加速度的に進んできている。

今回はそんな島根県に自身のルーツや経験から何か貢献できることがあるのではないかと、ブラジルから13年ぶりに日本にやってきた小波津チアゴ明さんに話を聞いた。

日本とブラジル、二つのルーツ

見た目や話し方からは自分たちの周りにいる「日本人」であると疑いもしないかもしれない小波津さんだが、実は沖縄にルーツを持つ日系ブラジル人3世だそうだ。
祖父がブラジルの青空市場ではじめた野菜の卸売人を継いだ父親と、銀行員だった母親が、1980~90年代の「日本で2~3年働けばブラジルで家が建てられる」といわれた日系ブラジル人の出稼ぎブームに便乗して来日、共に日系ブラジル人2世である両親のもと小波津さんは日本で生まれた。

居住地を転々としながらも日本で生まれ育った小波津さんは、当たり前のように日本に帰化をするつもりで生活をしていた。中学生の頃にはミドルネームをいじられないようにあえて飛ばして名乗ったり、日本語が不自由な両親の代わりに公的手続きのサポートを行ったりと、様々な苦労があったという。

「生まれた時から日本に居て、周りの日本人の子と何一つ変わらないはずなのに、名前にカタカナが入っている事や、両親の日本語がたどたどしい事、国籍が違うというだけで肩身の狭い思いをすることが自分の中でとても大きなコンプレックスで、早く帰化をして日本の社会に同化したい、という気持ちが当時は強かったです」と小波津さんは語る。

一方で自宅では、思春期特有の気持ちの変化やポルトガル語がほとんど分からない自分と、反対に日本語が分からない両親とのコミュニケーションが徐々に上手くいかなくなっていった。

そして、母親の病による体調不良や東日本大震災の発生などをきっかけに老後のことを考えた両親が、自分たちにとっては馴染みの深いブラジルへの帰国を決めたのは2011年、当時小波津さんが高校1年生の時だったそうだ。仕事のツテも大した貯えもなかったが、ブラジルに行けばまたやり直せる、両親にはそんな思いもあったという。

15歳ごろ、自分のルーツを隠していた日本在住時代
15歳ごろ、自分のルーツを隠していた日本在住時代

異郷の地で見つけた新たな可能性

両親に帯同する形で初めてブラジルに行くことになった小波津さんにとって、友人との別れや自身にとっては慣れ親しんだ地を離れる悲しさはあったが、高校受験が思うようにいかなかったこともあり「ブラジルに行くことで環境を変えられるかもしれない」と前向きに思えた部分もあったそうだ。

しかし現実は厳しかった。多少は分かるつもりだったポルトガル語が全く通じず自分の意志がうまく伝えられない。コミュニケーションが取れないので自分のしたいことがしづらくなり、消極的になってしまった。また、治安が悪いことから、外に出る際には気を張り続け、日本では当たり前の様に楽しめていた娯楽も非常に限られているなど、苦労が絶えなかったそうだ。

ポルトガル語が満足に話せない自分にも分け隔てなく接してくれたブラジルの高校時代の同級生たちと
ポルトガル語が満足に話せない自分にも分け隔てなく接してくれたブラジルの高校時代の同級生たちと

そんな中、彼の支えと助けになったのが転入先の高校にいた、JICA日系社会青年海外協力隊員として活動していた日本語教師の存在だった。

ブラジルに戻るつもりがないまま日本で育ったため母語である筈のポルトガル語力が充分でない小波津さんのために初期段階のポルトガル語の学習を言語面でサポートしてくれただけでなく、文化面における周囲との交流のサポートなど親身に支えてくれたおかげで、無事に高校を卒業することができたという。同校在学中には数年ごとの入れ替わりで赴任してきた合計3名のJICA日系社会青年海外協力隊員と接することができ、話すことがめっきり減った日本語で気軽に会話をしたり、自宅に招いてくれたりと非常に心の支えになった。

「これが原体験となり自身もいつか社会貢献をしたいと思うようになった」と語る小波津さん。
大学を卒業したあとはそのままブラジルに残った。就職活動の時には「社会の役に立つこと」を軸に企業選びを進め、結果的に「食で社会の課題を解決する」という理念をもった日系企業に入社することができた。そこでは外国人スタッフの許認可手続きや言語支援を含めた生活立ち上げに係る業務に携わる一方で、並行してプライベートでは日本語教育に携わるほか、自身のようなバックグラウンドを持ち日本からブラジルに渡ってきた帰国子女に対してのキャリア相談やアイデンティティーの確立に関するサポート活動などを行ってきたという。幼少期から日本とブラジル双方の文化に触れながら生活した自身が経験した言葉や価値観の違いによる問題や苦労を少しでも減らしたいという想いからだ。

参画していた日本からのブラジル帰国者(子弟・子女含む)支援団体で行っていただいた送別会での一枚
参画していた日本からのブラジル帰国者(子弟・子女含む)支援団体で行っていただいた送別会での一枚

島根での新たな挑戦と使命

これらの経験が彼の人生観に大きな影響を与え、異国の文化と生活習慣を深く理解しようとする姿勢を育み、「異なる文化が交わり、共に豊かさを生み出す社会」の形成に携わりたいという想いから、2024年10月から島根県を中心とした外国人材の受入や多文化共生社会の推進に取り組むJICA国際協力推進員に着任した。自身が外国人であるからこその視点や強みを活かして、地域の異文化理解促進やマイノリティである外国人の役に立ちたいという思いのほかに、彼にはもう一つの目標があった。

2024年はじめ、彼の父が急逝した。
「両親は若くして日本に生活拠点を変えていたこともあってか、ブラジルでの帰国後の再適応に於いては苦労の多い数年間を過ごしていました。マネーリテラシーの低さ、家庭内の不調和、人生設計の甘さなど、様々な問題が起因して頻繁に衝突をした結果、私は就職と共に実家を出ました。分不相応かもしれませんが、物理的に距離を置くことで両親の精神的な自立を促せるのではないかと当時は考えていました」。

しかし、実際には物事はあまり好転することもなく、彼が期待していたようには進展せずに年月だけが過ぎていった。この数年間は素直になれず会話も少なくなっていたが、小波津さんは自身の父親を嫌いになったことはなく、また尊敬するところも多々あったという。嫌なところにばかり目を向けてしまっていたが、葬儀の際に「お父さんはいつも君の話をしていた」と知人に声をかけられた際、なぜ両親がより良い生活を送れるようにもっと具体的なサポートや、せめてもっと寄り添うことができなかったのかと深く後悔したという。

「私の島根県での担当業務では、かつての私の両親のような背景をもった方々を対象に仕事をすることもあるそうです。一種の償いとして、両親に対して素直にできなかったことを、これらの人々に対して何らかの形で行い、悲しい思いをする人が一人でもいなくなれば、また私なりに価値を提供することで対象となる方々が笑顔の多い人生に近づけるサポートができるのであれば心からうれしく思います」。と小波津さんは抱負を語る。

夕日を眺めながらゆっくり過ごすことがあるというお気に入りスポットの宍道湖
夕日を眺めながらゆっくり過ごすことがあるというお気に入りスポットの宍道湖

13年振りに日本、そして初めて島根県にやってきてから半年が経過した。小波津さんに印象を聞いてみたところ、「初めて島根に来てまだ半年ですが、多くの方々から支えや励ましをいただき『人の温かさ』がとても息づいていると感じます。例えば、かつてあれだけ嫌だったカタカナのミドルネームに今は誇りを感じているので、あえて名刺に記載しているのですが、初めてお会いして名刺交換をする方には「外国にルーツがあるのですね。島根を堪能してくださいね」と温かく迎えていただける機会が多々あったりします。このホスピタリティの気持ちを私自身も胸に、地域に寄り添いながら一緒に課題を共有し、解決策を見いだす『共創』の姿勢を大切にしていきたいと思っています」と意気込む。

2025年、今年は日伯友好交流130周年の節目の年だ。日系ブラジル人も多く暮らす「ご縁の国しまね」にやってきた、日本とブラジル両国にルーツを持つ小波津さん。自身の多様な背景を活かし、「多様性」を地域の新しい力に変える挑戦をしている彼の活動の一端は、島根県JICAデスクの活動紹介でも確認することができる。島根県内の多文化共生社会の推進を目指し、地域や人を繋ぐ架け橋となるべくこれからも奮闘していく彼の活躍が楽しみだ。

この記事の写真一覧はこちら