「緒方洪庵」と聞くと、多くの人は幕末の蘭学者の名前を思い浮かべるかもしれません。天然痘ワクチンの普及や西洋医学書の翻訳に尽力し、近代医学の確立に努めた備中足守(現在の岡山市)出身の学者です。この緒方洪庵の名前を持つ日本酒が、さまざまな変遷を経て、2021年4月に新しく生まれ変わりました。

新生「緒方洪庵」。酒好きにはたまらない生酒もある(「緒方らぼ」提供)

プロジェクトに関わったのは大阪大学、愛媛大学、愛媛県西予市野村町の地域の人たち。アカデミックな香りがしますが、立役者の1人である大阪大学大学院人間科学研究科教授の佐藤功さんは言います。

「大学という響きを伴うと、いかにもプロフェッショナルな計画や戦略があると思われるかもしれませんが、僕たちは酒販売に関しては素人。いろんなことを経験し、できた繋がりを生かし、目の前のことに必死に取り組んでいたら、いつの間にかできていたんです」

今回、新銘酒「緒方洪庵」ができるまでの道のりを、佐藤さんに聞きました。

佐藤さんのオンライン取材。背景画像は、西予市野村町のにある緒方酒造の蔵

“僕だけが知っている町”で出会った緒方洪庵

佐藤さんは生まれも育ちも大阪で、田舎という存在に憧れていました。幼い頃、友達が“夏休みに田舎に帰る”のが、羨ましくてたまらなかったと言います。しかし結婚によって、佐藤さんに“初めての田舎”ができました。それが妻の生まれ故郷・愛媛県西予市です。

愛媛県西予市野村町野村の光景

実家のある城川町から隣の野村町へも足を運び、散策を楽しむ中、佐藤さんは緒方酒造の存在を知ります。1753年創業の緒方酒造は250年を超える長い歴史のなかで「緒方洪庵」や「東洋一」「児島惟謙」という名前を冠した日本酒を製造していました。

緒方酒造で手掛けていた酒のラインナップ

特に“緒方洪庵”の名前に、佐藤さんのアンテナが立ちました。佐藤さんの所属する大阪大学は、緒方洪庵が1838年に大阪で開いた私塾「適塾」を原点と位置付けています。併設された適塾記念センターでは緒方洪庵が研究されており、同センターの准教授・松永和浩さんは「野村にある緒方酒造の創業者は、緒方洪庵と遠戚関係である」とも証明しています。

適塾記念センターの准教授・松永和浩さんは「野村にある緒方酒造の創業者は緒方洪庵と遠戚関係である」と証明(「緒方らぼ」提供)

佐藤さんは、緒方酒造と大阪大学の間にある“緒方洪庵”繋がりを感じていましたが、まだ当時は蔵の中に入るご縁はありませんでした。

同じルーツを持つ緒方酒造のために、何かしたい

2018年7月、西日本豪雨によって、野村地域は甚大な被害を受けました。佐藤さんも大阪からボランティア活動に駆け付け、被害状況を目の当たりにして涙が出たと言います。

緒方酒造の被害の様子、酒蔵の白壁が剥離(緒方らぼ・本家緒方提供)

9月、緒方酒造の被災した蔵の扉がたまたま開いており、佐藤さんは当時の社長・緒方レンさんと言葉を交わすことができました。

「レンさんから酒造りを断念したと聞いた時、何かしたいと思ったんです。緒方洪庵と深い関係のある阪大の者として、洪庵とルーツを同じくする緒方酒造のために」

そこで佐藤さんは大学内で有志を募りました。集まったメンバーは専門の枠を超えた“酒好き”ばかり。地元の人たちと交流を深めながら、佐藤さんらは復興のために思案を重ねます。

「そんな時、レンさんが『お世話になった野村のために蔵を残すので、文化拠点としてアカデミックに活用してください』と申し出られたんです」

そうして誕生したのが「緒方らぼ」。大阪大学の有志と、豪雨災害時より野村にボランティアに入っていた愛媛大学社会共創学部の有志、そして地元・野村地域自治振興協議会とが協働してできたチームです。緒方酒造の蔵を拠点に「緒方らぼ」が文化事業を展開していくことが決まったのです。

野村地域の人たち、愛媛大学、大阪大学によってできた「緒方らぼ」(「緒方らぼ」提供)

諦めない姿勢を学び「酒を造ろう!」

2019年11月、蔵を使って行われたプレイベントの様子(「緒方らぼ」提供)

当初は2020年3月から本格的に始動し、蔵を舞台に落語や音楽といったアカデミックな講座を予定していました。しかし新型コロナウイルス感染拡大のため愛媛行きが難航し、計画は一時中断。そんな中、佐藤さんは「Nジオチャレ」という野村の高校生チームから刺激をもらった、と語ります。

「大人たちが身動き取れない中、Nジオチャレのメンバーが“お中元プロジェクト”というオンライン企画に参加して、全国と繋がり始めたんです。僕たちも『コロナ禍でもできることがあるのでは?』と思いました。また野村の人たちは、豪雨災害など辛い目にあっても諦めない。酒を酌み交わして信頼関係を結ぼうとする力が、本当に強い。『酒は文化』と言い切る彼らの姿、困難にも前を向いて進む姿から、僕はたくさんのことを教わりました」

野村地域で活動する高校生「Nジオチャレ」のメンバーと交流を深める佐藤さん(「緒方らぼ」提供)

そうして持ち上がった話が“酒造り”。「蔵で講座ができないなら、酒を造ろう!」と決まったのです。

阪大の英知と人脈を駆使して完成した、新生「緒方洪庵」

佐藤先生さんら「緒方らぼ」がスタートさせた、酒造りプロジェクト。緒方酒造が所有していた日本酒「緒方洪庵」の商標は、このタイミングで緒方酒造から大阪大学へと譲渡されることになりました。大阪大学としても貴重な“緒方洪庵”を受け継ぐことは大歓迎でした。

新生「緒方洪庵」を造るにあたり、大阪大学ゆかりの「きょうかい6号酵母」という、日本醸造協会が頒布する現存最古の協会系酵母が使用されました。販売を手掛けるのは大阪大学初のベンチャー企業ビズジーンと、さまざまな面で大阪大学の人脈が生きています。ラベルデザインも緒方洪庵の自筆を採用しています。

特に佐藤さんらがこだわったのは、味でした。そこで選んだのは、2020年まで6年連続の全国新酒鑑評会金賞を受賞する実力派、兵庫県朝来市にある1690年創業の此の友酒造です。コロナ禍の影響のため手元にあった米・山田錦で、すぐに酒造りに取り掛かることができました。

「杜氏の勝原さんは、僕たちがびっくりするほど深く“緒方洪庵”に向き合い、悩んでくださいました。緒方洪庵は深い見識を持つと同時に、庶民から愛されてきた人。そのイメージを酒に込めてもらえました」と佐藤さんは語ります。

1690年創業の「此の友酒造」杜氏の勝原さん。毎日酵母を見守り続けた(「緒方らぼ」提供)

2021年3月、昔ながらの製法で出来た新生「緒方洪庵」は、すっきりと飲めて透明感のある酒に仕上がりました。限定1500本の純米吟醸酒、酒好きにはたまらない生酒もあります。

「日本酒を飲んだことのない人にも自信をもって勧められる酒。地元の人たちからも『おいしい』と豊かなコメントが届いていて、嬉しいです」と佐藤さんはほころびます。

大阪大学内で梱包作業が行われる新生「緒方洪庵」(「緒方らぼ」提供)

「酒好きが集まると、物事はどんどん動くんですよ」

佐藤さんをはじめ、多くの“酒好き”が熱意を持って関わり、新生「緒方洪庵」誕生に繋がった今回のプロジェクト。2021年4月30日にクラウドファンディングも成功し、6月からは一般販売も予定。価格には、2018年に西日本豪雨災害で被災した愛媛県西予市野村町への復興支援額も含んでいます。

愛と信頼の潤滑油としての酒を信じて

“僕だけが知っている町”から“みんなに知ってもらいたい町”へ。今回のプロジェクトを通じて「野村のことをもっと知ってもらいたい」と佐藤さんは語ります。クラウドファンディングの返礼品も酒だけでなく、野村地域を紹介した冊子を同封しています。自由に酒を酌み交わし、人と信頼を繋ぐ酒の場を「文化」とまで言い切る野村地域に魅了された、佐藤さんの思いが詰まっています。

「今のコロナ禍、不信と疲労の悪循環が渦巻いて、お酒を飲むことがまるで悪いように言われてしまっています。でも、お酒本来の姿は“愛と信頼の潤滑油”。お酒は、人と人を信頼で結ぶものだと思うんです」

佐藤さんの頭の中では、第2弾、第3弾と次々に“妄想”が膨らんでいます。佐藤さんら“酒好き”の挑戦は、これからも続きます。人と人をつなぐ酒の未来を信じて。

左から宮前良平さん、松永和浩さん、佐藤功さん、川端亮さん。お酒好きで野村に通う(「緒方らぼ」提供)

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