最盛期には200軒以上もの古着屋が建ち並び、現在も100軒以上が営業する高円寺。原宿や下北沢と並ぶ古着の聖地だ。
だが、そんな高円寺がなぜ古着の街として定着したのかはあまり知られていない。もちろん、様々な背景があって古着の街となったわけであるが、今回はそれに大きく貢献した1人であろう佐久間ヒロコさんをご紹介したい。古着に加えて、有限会社ホットワイヤーの代表として、様々な地域を盛り上げる事業を展開している。

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「高校生の頃、漠然と“社長になりたい、お金持ちになりたい”と思っていましたね。高校卒業後、建築系の専門学校に進学しました。ですが、なかなか学校と合わなくて。卒業するまで2回学校を変え、結局4年間専門学生をしたんです。そして、もうすぐ卒業って時に、ふと思いました。自分よりも4~5歳下の人と同期になるのはなんだか嫌だなと。それならいっそ起業しちゃえって思って勢いで会社を作りました。25歳の時でした」

1989年12月1日。有限会社ホットワイヤー設立。当時は、建築事務所としてのスタートだった。図面を描くのが得意だった佐久間さんが、起業前から専門学校の繋がりで、仕事を依頼されていた。それを本格的に仕事にするようになった。当時、学生起業は非常に珍しかったという。

「当時、バブルだったこともあり、事業は好調でした。そこで稼いだお金で、念願だったアメリカへ行くことにしました。アメリカの自動車や音楽などの文化がとても好きだったんです。でも、単なる旅行だけでは嫌だと思い、何か仕事にできないかなと思いました。そこで、古着を何着か買い付けてみたんです。当時、日本ではまだ古着は物資不足に応えるためのものでしたが、アメリカではファッションとしての価値が認められていました」

そうこうしているうちに、自分で古着屋をやろうと考え、1995年に古着屋「ホットワイヤー」第一号店を出店。原宿と迷ったが、自宅があった板橋から車移動がしやすいという理由で高円寺を出店地に選んだ。

古着屋ホットワイヤー第一号店

「その頃は、まだ高円寺が古着の街というイメージを人々は持っていませんでしたね。数軒しかお店もありませんでしたし。そこから、徐々に古着屋は増えていきました。もともと中央線沿線には、古本や中古楽器店などが多く、文化的に親和性が高かったんだと思います。私も店舗をどんどん拡大し、高円寺に5店舗、下北沢と渋谷にも1店舗ずつの計7店舗までになりました」

高円寺の古着屋はその後もどんどん増えていき、1990年代末には200軒近くまでに。だが、それぞれの店舗は、あくまで自分たちが儲かればいいというスタンスだったという。一方、佐久間さんは、店舗どうしが協力し、高円寺を“古着の街として打ち出そうとした。

「何度も、なぜ他の店の宣伝になることをするのかと不思議がられましたね。でも、私は古着屋が集まっていることの相互作用によって人が集まり、結果として各店舗の売り上げの増加にもつながると信じていました」

1998年に、高円寺ルック商店街にメキシコ料理屋「ホットワイヤーカフェ」を出店した佐久間さん。そのお店の宣伝チラシを作るためにクリエイターの仲間を集めた。だが、話が盛り上がり、気づいたら街の紹介をする雑誌を作る話に飛躍した。そこで、130店舗ほどが登場する古着店のマップを掲載した。雑誌には「SHOW-OFF」と名付けた。

創刊頃のSHOW-OFF

「最初は単発の雑誌のつもりだったんですが、結果的にこれが創刊号となりました。年間4回発行でもうすぐ100号です。いまでは古着屋に限らず、幅広く地域の情報を紹介する雑誌になっています。広告費を取るわけでもなく、SHOW-OFFは完全無償でやるって決めているんです。編集チームもみんなボランティアですね」

SHOW-OFFがきっかけで、徐々に古着屋がまとまってPRをするようになり、2000年代には、高円寺は古着の街として完全に定着していた。だが、古着屋をやっている人々は、もともと高円寺が地元という人は少ない。そのため、地元地域からはあまり良い印象を持たれていなかったという。

「正直地元の方々には嫌われていたと思います。よそ者ですよね。変なやつらがやってきて、汚い格好をして治安が悪くなる。”そんなふうに思われていたようです。2005年頃に、SHOW-OFFなどがきっかけでつながった古着屋などの商店の方々と高円寺でイベントがやりたくなったんですよね。合い言葉は“高円寺でフジロックを”。ですが、地元から嫌われていた私たちは、なかなか場所を貸してもらえませんでした」

多くのボランティアに支えられてイベントを行っている

ライブハウスなどで小さく地道にスタート。徐々にストリートでできる機会が増えていった。街の各所で、お笑いや大道芸などをやり、その日は町中で同時多発的に小さなフェス会場が出現するイベントだ。そうして2007年に、ようやくある商店街(高円寺には13の商店街がある)で、大々的に開催することができた。だが、想定外の人気で大行列ができるトラブルが起きてしまい、その商店街がお怒りになってしまった。

「もう来年は開催できないねって落胆していました。そんなところに、高円寺純情商店街から、“すごいイベントをやったみたいだね、来年はうちの商店街でやらない?”と声がかかったんです。そして、その年も成功させ、2009年には高円寺全域で開催するイベントにまで拡大しました。古着屋をしている人々と、もともと地域で暮らしている人々がつながるきっかけや、古着屋への偏見が少なくなるきかっけになったと思います。また、当時の高円寺は北側と南側とで深刻な地域住民の対立があったので、結果的に広く地域をつなぐイベントにもなったと思います」
このイベントは、現在「高円寺フェス」と呼ばれ、高円寺4大祭りの1つとして秋の高円寺の風物詩となっている。

高円寺フェスではご当地キャラがプロレス対決

古着の街・高円寺が定着する立役者となり、その後も高円寺のまちづくりに大きく貢献してきた佐久間さん。行政から、中高生向けの地域学習の講師を依頼されたり、商店街から地元のご当地キャラの運営や、交流自治体である山形県・飯豊町のアンテナショップ運営を頼まれたりと、有限会社ホットワイヤーの事業は多岐にわたる。
10名ほどの社員を雇用し、高円寺を代表する会社となった。学生起業し、がむしゃらに走り抜けてきた約30年だった。最後に、今後の展望を伺った。

「36歳の時に娘を出産したんです。その時に、人生設計をしたんです。娘が20歳になるまでは、とにかく頑張ろうと。本当に必死で働き、女手一つで必死に育てました。そして、ついに3年ほど前に娘が20歳になったんです。今年は就職もしました。私も60歳を過ぎ、体力面含めてそろそろ責任が取れなくなってきたなと感じています。自分しかできないことをしようとしてきましたが、これからは周囲をフォローし、後継者を育てながら、だんだん経営からはフェードアウトしていきたいと思っています。夢は、料理が好きなので、5~6人くらいが入れる小さなお店をやりたいですね。説教バーみたいな感じです(笑)開店したら、ぜひ来てくださいね」

いかがだっただろうか。高円寺と共に駆け抜けた30年間。やはり、街は人が作るのだと感じるストーリーだった。これからも佐久間さんの仕掛ける事業が高円寺を盛り上げることと、佐久間さんの後継者たちの成長・活躍が楽しみだ。

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